父はハッカー(六)
「部長、会議室なくなりました」
「そんな言い方は無いだろう。会議室はいつもそこにある」
「はぁ」
目を瞑れば思い出と共に蘇る、会議室の思い出。
昔部長に怒鳴られた怖い思い出とか、その部長がお客に必死に頭を下げて詫びる姿とか、そんな嬉々交々としたものが蘇る。
それが会議室なのだ。
牧夫がそこまで、想いを巡らせていたとは思えないが。
「で、どうするの?」「またメールで、回覧にしようかと」
届いたばかりの夕刊を高田手にして、牧夫と話している。
「あっ、そう。じゃぁ、そうして」「はい」
高田は何か言いたそうにしていたが、それを飲み込んで消化した。高田にとって重要なのは、夕刊の見出しの方だったからだ。
救いも同情も、何か他の名案も授けては貰えなかった牧夫は、一礼して自席に戻る。
本当に困った会社だ。部課長会の資料なんて、誰が見るものか。
メールに資料を添付するのは禁止されている。だから資料を格納してある『サーバーのアドレス』を指示して回覧するのだが、それが曲者なのである。
サーバーにアクセスするためには、記号と英字を含む十三文字以上のパスワードを、三種用意しなければならない。
部課長専用のログイン画面が現れると、三つのパスワードの入力欄の下に『キーボードの絵』が現れる。
それは、机上にあるキーボードに刻印された文字を『臨時的に置き換えたもの』となっている。
キーボード上の刻印はAであっても、今回だけはXだったりするのだ。それを見ながら、一つのパスワードを十五秒以内に入力しなければならない。
そして、次の『パスワード入力欄』にカーソルが移動すると、画面に表示された文字の配列が変わる。
システムの導入以来、不正に侵入した者は皆無だが、正規にログインしたものも皆無。つまり鉄壁のサーバーと言える。
このサーバーのことを、社内ではフロンティアと呼んでいた。
牧夫は溜息を吐いた。そしてフロンティアの『書き込み用ログイン画面』を開き、七種のパスワードを十秒で入力する。
そして、表示された真っ黒な画面に対し、資料のコピーコマンドを入力する。そのまま伸びをして、早々に席を立った。
「山崎さん、部課長会の案内出しといて」
「フロンティアメールですね」
上手いことを言う。周りが山崎と牧夫を見て、薄笑いを浮かべた。
「そう」「はーい」
もはや格納先のアドレスを、聞くことすらない。
念のために言っておくが、山崎と牧夫がツーカーの仲ということではない。山崎がツーカーなのは牧夫ではなく、本部長や部長らだ。
つまりもっと偉い人。課長になりたての牧夫は圏外である。
牧夫は、そんな素性も判らない山崎を信頼して自販機に向かう。
自席のパソコンでは、まだコピーが行われているが、それは問題ない。コピーが終了したら、自動的にログアウトするようになっているからだ。
世の中、そんなに甘くない。
三ページ以上の文書ファイルを操作すると、一度ログイン画面に戻されるのだ。
フロンティアは、いつまでもフロンティアであり続ける。
「あいつ、仕事も速ければ良いのになぁ」
夕刊を傾けて、高田が小さな声で言った。
聞こえる範囲の人が振り向く。そこに、当然牧夫は含まれてはいなかったが、多くの者がそう思っているに違いなかった。
「彼もハッカーですから」
そう言って山崎はキーボードを叩くと、フロンティアから牧夫が保存したファイルを取り出す。
「まぁ、そうなんだけどさ」
高田は山崎の意見に一応賛同した。社内でもハッカーはそうは居ないのだ。牧夫は会社にとって、数少ないハッカーの一人だ。
「朱実ちゃん、また要約して送って」「判りました」
部下に朱実は三人居たが、高田の依頼に答えたのは山崎だった。
「定時に間に合う?」「お任せ下さい」
高田は時計を見ていた。朱実も時計を見て答えている。
二人とも今日の定時後に、大切な用事があった。しょうもない。




