失敗と成功の狭間(五十二)
「それで『琴坂琴美』が何者なのか、判ったのか?」
少佐はまたお茶を一口飲んだ。そして考え始めた。大尉が答える。
「いいえ。こちらでも調べたのですが、何者なのか不明でして」
ヒュッと首を回して大尉の方を見る。軍の情報網を使ってそれはないだろう。咄嗟に思ったのはそれだ。
「そんなことないだろう? 両親は何をしている人なんだ?」
少佐が見た大尉は『反省』というよりは『不思議』のようだ。
「それがですね、もちろん戸籍はあるのですが、何も情報が出て来なくて、もうびっくりです」
「そんなことあるのかぁ?」
舐めてんの? あり得ないだろう。語気を強めて言っても、大尉の表情は変わらない。
「はい。陸軍情報部に父親の『琴坂牧夫』で検索して貰いましたが、従軍していませんでした」
それは珍しい。だとしたらそれは、医者か技術者か、政治家?
少佐は右手を腰から顎に付けて首を捻る。
「母親の『琴坂可南子』も、従軍履歴はありません」
「そうかぁ。まぁ、そっちは珍しくはないな」
「ええ。母親かどうか判りませんが、市ヶ谷本部、朝霞駐屯地、補給艦間宮で給仕をしていた、『女性の琴坂』なら居ました」
大尉の顔は『多分違いますよね』である。少佐も頷いた。
「それは『軍人』じゃなくて、『給食職員』だろう?」
「そうでしょうねぇ」
大尉が両手の平を上に上げて、答えている。お手上げか?
それを見た少佐は色々考えを巡らせる。
大尉は、もう少し出来る男だと思っていたのだが、女子大生一人の経歴も洗えない程、使えない奴だったのだろうか。
いや、そんなことはない。ここまでの情報は全部大尉のお陰だ。
現に重要な情報を、色々持ち帰って来ているではないか。
「行動履歴は洗ったのか?」
東京で『行動履歴を洗う』と言えば。そう、それはもちろん『ハーフボックス』だ。
予約情報は軍の情報部ならアクセス可能だし、何なら行先だって自由に変更できることは、実証済である。
「それがですね、『琴坂琴美』は『ハーフボックス』を一度も使っていないんです」
「馬鹿っ! そんな訳あるかっ! あぁ、いや、すまん。すまん」
思わず怒鳴ってしまった自分に驚いて、少佐は大尉に謝った。
しかし、少佐の驚きも判る。だから、少佐を責めることは出来ないだろう。
東京で『ハーフボックス』を使わずに行動するなんて、今の『東京人』には考えられないのだ。代わりになるのは『徒歩』しかない。
それ程に『日常の行動』なのだ。
「いいえ。少佐の驚きはごもっともです。私もそう思いましたもの」
大尉は器が大きいのか、サラリと流してみせた。
確かに大尉の言う通り、琴美が『ハーフボックス』を『予約した実績』はない。
大学と寮の往復は、楓が手配した『ハーフボックス』に同乗していた。だから琴美が予約したことはない。
実家に帰るときは、東京の地理に土地勘がある琴美は、近所の駅まで歩いていたのだ。
それに琴美は『ハーフボックス』が嫌いだった。何故なら『スイッチの類』が、全て『タッチパネル』だったからだ。
琴美は『ソフトウェア』を全然信用していない。だから『緊急停止ボタン』くらいは『ハードスイッチ』が必要だと思っている。
スタートしたら最後、目的地に着くまで止められない乗り物なんて、そんなの『誘拐されるのと同義』ではないか。
祖父にも父にも言われていたこと。『何処へ連れて行かれるか判らない車に、ホイホイと乗るんじゃない』その教えを守っているとも言えるだろう。
「関連があるか判らないのですが」
大尉が眉をひそめて少佐に報告を始めた。少佐は直ぐに頷く。
「陸軍情報部に『琴坂琴美は、海軍情報部も空軍情報部も調べているのに、陸軍情報部ではノーマークなのか!』とですね、恫喝してみたんですよ」
大尉は再現するように語気を強めて言った。少佐は笑い出す。
「なんだ、お前もやるなぁ」
少佐に軽く肩を叩かれて、大尉も思わず笑う。
『少佐の真似をしてみただけです』
とは、口が裂けても言えないけれど。大尉は言葉を続ける。
「そうしたらですね、今、空軍情報部は『全サーバーがダウンしている』って、言うんですよ。あり得ると思います?」
「なっ? えぇ? 全部? どういうことだ?」
少佐は眉をひそめた。そんな事態に陥っていることもそうだが、報告が来ない辺りを見ると、どうやら本当のようだ。




