失敗と成功の狭間(三十三)
「何もありません」
少佐は真っ直ぐに、お嬢様を見て答える。しかしお嬢様は、聞こえているだけで、聞いてはいないようだ。
拳銃を大尉の方に向けて、再度問う。
「あなたは? 何かないの?」
まるで『注文を聞く』かのような、自然な流れ。しかし決意は固いらしく、拳銃の安全装置を外すと、狙いを定める。
「待って下さい!」
少佐が大尉の前に覆いかぶさって、お嬢様の方を睨み付ける。
「どきなさい」
「どきません」
短いやりとりがあって、お嬢様は溜息をつく。
「あなたの息子さん、秀樹さんにしましょうか?」
少佐の顔が凍り付く。しかし、反論はできない。目の前のお嬢様は、自分の息子が危うく死ぬ所だったのを、大変お怒りなのだ。
「部下なら、代わりが効くから良いでしょ。どきなさい」
「代わりはおりません。どきません」
少佐は首を振って譲らない。大尉は少佐の陰からお嬢様の顔と、少佐の肩を凝視しているだけだ。
「そんなに可愛いの?」
「息子も同然です」
声を荒げることもない言葉の応酬が続く。少佐も必死なのだ。
「あら。そう。じゃぁ、丁度良いわ。あなたも『息子を失くすこと』がどういうことか、経験してみなさい」
顎で合図すると、執事が少佐の首根っこを掴んで引き寄せる。
「やめろっ!」
少佐は叫んだ。大尉への射線が通る。その瞬間は直ぐに来た。
『パン!』
拳銃の音は『バキューン』ではない。戸板を叩くような乾いた音だ。少佐は何度も聞き覚えがある。躊躇なく本当に撃ちやがった。
しかし、大尉は初めての体験だった。なにせパイロット。拳銃を向けられたことなんて、今まで一度もなかったのだ。
リムジンに火薬の匂いが広がってゆく。お嬢様は用が済んだ拳銃を、足元に投げ捨てる。絨毯の上で『トン』と音がした。
直ぐに横にいる執事がそれを拾い上げると、銃口の先に飛び出した『真っ赤なバラ』を、銃身の中に収納して、上着にしまった。
「片桐大佐に、良く『お礼』をすることね」
少佐は直ぐに思い出す。戦艦大和の艦長だ。
「今回は『ハルウララ』に免じて。ねっ。次はないわよ」
「恐縮です」
少佐は頷いた。直ぐにドアが開いて、リムジンを追い出される。しかし少佐がドアの所で、お嬢様に呼び止められた。
「女の代わりは幾らでもいるけど、徹ちゃんを悲しませたらっ」
その先は『判っているわね』と、念を押す。少佐は頷くしかない。
「はい」
これで朱美を『粛清』することは、暫く難しくなった。
「あの『おばちゃん』、怖かったですよねぇっ」
苦笑いでお調子を差し出した大尉が、しみじみと言う。
「馬鹿、声がでかい。まったく。お前の方が怖いよっ」
少佐はお猪口を差し出しながら、諦めたように言い放つ。
大尉は『本当ですか?』と、何故か嬉しそうな顔になり、お調子を傾けたのだが、酒は入っていなかった。
慌ててもう一本に手を伸ばし、少佐のお猪口に注ごうとしたのだが、チョロチョロっと出ただけで、なくなった。
「すいません。美味しい所でした」
「あぁ。そのようだね」
今日はこの辺にしておこう。少佐は少しばかりの酒を、グイッと飲み干した。
「ご主人! もう一本!」
大尉は、何も判っていなかった。空になったお調子を振って、ご主人に声を掛けている。
「大尉ぃ、もう、良ぃだぁろぉうぅ」
少佐は苦笑いで手を横に振り、主人に『不要』を告げる。
果たしてどちらの主張が通るのか。
それが判るのは、もう少し後の話である。




