失敗と成功の狭間(三十一)
ひなびた町中華に『人間模様』があるとしたら、一つは琴美達が座るボックス席だろう。
楓に『濡れせんべいって何だよぅ。知らないよぅ』と言われながら、琴美が『銚子の銘菓』だと必死に『千葉アピール』をしている横で、笑いながら絵理と美里が、杏仁豆腐を勝手に注文する。
すると楓も『濡れせんべい』を横に置き、杏仁豆腐を追加。琴美は『一口づつくれぇ』と猛烈アピール。お決まりの風景だ。
笑顔が溢れる何とも楽し気な食卓だ。きっと仲良しなのだろう。
一つあけて、隣の隣にも『人間模様』がある。
こちらは大の大人が二人。彼らは女子大生四人が来る前から、サシで飲み続けていた。
テーブルの上には、空になった瓶ビールが五本。倒れたお調子が三本。まだ立っているのが二本ある。
八角形の器。既に空になっていて、何炒飯だったのかは判らない。細長い皿に残ったチャーシューがあと三枚。さっきから上司と部下が『どうぞどうぞ』と譲り合っている。今は、そんな時間帯だ。
「少佐、本当にすいませんでした」
これで何回目だろうか。テーブルに頭を付ける程首を垂れている。
「いやいや。大尉。良いんだ。お互い無事だったんだし」
近くなった肩をポンポンと叩く。大尉は顔を上げた。
この少佐と大尉、今は平服である。仕事の愚痴を吐くために、場末の町中華にやってきた。
だから名前を互いに『偽名』で語り合っていたのだが、酔っぱらってついつい『階級』に戻ってしまっている。だが、知り合いはいないし、本人同士も気が付いていない。
「しかし、小田急ではやられましたね」
「あぁ、大尉がでかい声で言うから、焦ったぞ」
「いやぁ、ホントすいませんでした」
大尉が謝ったのは三カ月程前の出来事だ。
部隊の協力者『山崎朱美』が、結婚式後の新婚旅行で『国外脱出を図った』と、アラートが発令された。
二人は直ぐに本部を飛び出した。
アラートの報告書によると、新婚の二人は新宿駅からロマンスカーに乗車。相模大野で乗り換えて、厚木国際空港へ向かうとされた。
大尉が操縦するヘリで相武台へ急行。ジープを飛ばして相模大野駅へ。駅員に緊急事態を告げて、ロマンスカーを緊急停車させ、大尉が先陣を切って乗り込んだのだ。
「掴まえたぞ!」
暗記した座席番号。通路側に座る女性の肩を掴み、大尉が叫んだ。
「あらあら。掴まっちゃいましたねぇ」
にこやかに振り向いたのは、品の良いお婆さんだった。するとそのお婆さんは、大尉の制服を見るとパッと目を輝かせたのだ。
「あらぁ。大尉殿、お役目ご苦労様です」
ゆっくりと首を傾げながら、階級章を見たのだろう。大尉は直ぐにお婆さんから手を離した。朱美ではないのも明らかなのだが。
「主人はね。大尉を飛ばしてしまったので、ちょっと憧れていたんですよ? 懐かしいわねぇ」
ゆっくりとした口調に、落ち着いた様子。只者ではない。
「あら、今度は少佐殿じゃありませんか。お役目ご苦労様です」
丁度少佐が追い付いて、大尉の横に並ぶ。再び少佐の階級章を見たのだろう。丁寧に頭を下げている。
少佐にも目の前の人物が朱美ではないことは、直ぐに理解できた。
「あなた。ちゃんと『護衛の方』がついて来たじゃないですかぁ」
隣でリクライニングシートを倒し『背広の上着』を頭から被って寝ている男性を、そっと揺すった。きっと、旦那なのだろう。
少佐は急激に頭が痛くなってきた。
あのぅ。すいませんでした。起こさなくて、良いです。
しかし、そんな少佐の気持ちを、お婆さん、いや、ご婦人が気にする様子もなく、笑顔で少佐の方に振り返った。
「主人はね。『今日は私用で結婚式に行くだけだから、護衛は不要だ』なんて、言ってましたのよぉ。ほほほ。お休みなのに、すいませんねぇ」
隣の旦那様が、もぞもぞと動き出した。それが判ったのだろう。ご婦人がそっちを向いた。
「ほらぁ、陸軍の方がいらして下さいましたよ? ご挨拶くらい、して下さいなっ」
「奥様、結構でございます」
少佐が起こさないように、静かに言ったのと、背広を持ち上げて顔を覗かせたのが同時だった。無言のまま顔をしかめ、右手で『何だよ。あっちへ行け』と手を振っている。少佐は直ぐに頭を下げた。
「どうぞごゆっくり。良い旅を」
少佐は大尉のケツを叩いて逃げ出した。そして、箱根湯本から普通電車でトボトボと帰って来たのだ。
「まさか、鈴木中将だったとはぁ。びっくりしましたよねぇ」
「大尉も、偉い人の顔は、覚えておきなさい」




