ガリソン(二)
病室の外から眺める街の景色は、普段とは違う。
そこが『非日常の世界であるから』という理由もあるだろうが、隔離されたこの世界から『眺める憧れ』も、あるからだ。
琴美は窓を開けて、外の空気を吸い込んだ。
もう直ぐ自分もあの街へ出るのだ。そろそろ母が買い物を済ませ、銀行に行ってお金をおろし、戻って来る頃だ。
「琴坂さん、窓閉めて下さいねぇ」
「はーい」
看護師のお姉さんに言われて、琴美は病室の窓に手を掛ける。
病室の窓は少し重かったので、お姉さんも手伝ってくれた。
「今日は、夕方から夜に掛けて、雨らしいので」
真顔でそう言いながら、看護師のお姉さんは鍵を掛けた。そして何故か念入りに、窓の隙間を確認している。
「そうですか」
そう言う『ちょっと神経質』な人もいるだろう。まぁ、気にすることはない。優しいお姉さんではないか。
琴美は『琴坂琴美様』と書かれた、自分のベッドに戻った。
今となっては慣れた名前であるが、王王今土反王王今美と、何とも画数の多いこと。習字の時は本当に泣ける。
それに、苗字と同じ字を名前にまで使わなくても良いのに。お陰で『コトコト』とか、変なあだ名を付けられたコトも、あるし。
ネームプレートの手書き文字を見て、琴美はそんな昔のことを思い出した。書いた人の苦悩が窺える書体である。
しかし、それも今日までだ。もう退院だし。
「琴美、帰るわよー」
ほら来た。琴美はパッと起き上がる。
「おそーい」
「会計が混んでたのよぉ」
琴美は笑顔で母にそう言った。もうさっきみたいに、抱き付いたりはしなかった。
会計が混んでいたそのことが、よっぽど不満だったのだろうか。母の顔に『苛立ちの表情』が見て取れたからだ。
イラつく母に余計なことは言わないでおく。それが賢明だ。
まぁ、とりあえず、今朝出かけたばかりの家に帰るだけだ。明日の試験に備えて、勉強もしなければならないだろう。
琴美は身支度をして、他の病室の人にペコリと頭を下げた。その後は黙って母の後ろに付いて回り、病院を出る。これが退院だ。
「雨降りそうだから、タクシーで帰ろうね」
「うん。いいけど自転車は?」
この病院に来るときは、いつも自転車だ。
しかし、娘の顔を覗きこむ母の顔は『何を言っているんだ』という顔だった。琴美は黙った。余計なことを聞いたらしい。
琴美は母の目を見て『自転車の二人乗りをしろと言うのか?』と、言っている。そう読み取った。
家まで歩いたら、三十分は掛かるだろうか。それはない。
バスでも良かったのだが、母はバス停の時刻表を見ようともしない。どうしてもタクシーが良いようだ。さっさと歩いて行く。
病院の前に停まっているタクシーに手を上げると、当然のように扉が開く。母はそこにさっさと乗り込んだ。
「早く乗りなさい」
車の奥から手招きをして、苛立った声を響かせている。
「うん」
それ位のことで急かす様な母ではないのだが。
今日に限ってか、のんびりと歩く琴美に向って、乗ってドアが閉まるまで、何度も何度も手招きをしていた。
「はいはい。お待たせしましたっ」
琴美がタクシーに乗ると同時にドアが閉まり、母の顔が安堵の顔に変わる。そしてタクシーはスルスルと走り出した。
「そこを右です」
まだイラついているのだろうか。母が率先して指示している。
「かしこまりました」
そうは言ったものの、タクシーは病院を出るときに一度止まる。
そこで車の流れを読み切ると勢い良く加速して、言われた通り右折した。