恋路の果てに(四十三)
少佐は苦笑いで立ち上がった。
言うではないか。『夫婦喧嘩は少佐も食わぬ』と。え? まだ夫婦じゃない? そんなのどうでも良いことだ。
少佐は初期化の終わったスマホと手帳を重ねると、席を立ちながら大尉の方に差し出した。大尉が走り寄り、それを受け取る。
大尉は受け取ったスマホと手帳をトレイに戻し、散らばった荷物をバックに詰め込み始めた。
朱美は『自分でやります』と目で合図して、立ち上がる。少佐も頷くと大尉は壁際に下がった。
「式の日取りは決まったのかい?」
歩きながら少佐が朱美に聞く。大尉は出口の方に歩き始めた。
「まだです。先ずは式場を決めないといけないので」
朱美はバックに荷物を詰めながら笑顔で答える。すると少佐は踵を返した。笑顔になって朱美に聞く。
「あらそう。『軍人会館』とってあげようか?」
まるで今から『予約の電話』でもしそうな勢いだ。朱美は『またか』と思いながら、両手を振って机に迫る。詰め込みは中断だ。
「いえいえ。大丈夫です。『家のホテル』で挙げますから」
目を大きく見開き、少佐の目を見て訴える。
「なんだ。そう言えば、そうだったよねぇ」
とても残念そうな顔。地元で朱美の実家が『ホテル業』なのを、どうやら思い出したようだ。
「はい。でも『新郎側』ときっと揉めると思うんですよ」
断ったものの、朱美も困り顔。少佐はもっと困った顔になる。
「そうなの? そこで『喧嘩別れ』は止めてねぇ」
縋るように少佐が言うと、朱美の顔に笑顔が戻る。
「大丈夫です。当人と言うより『家同士』の争いですから」
それを聞いて、少佐の顔つきが変わった。
「おやおや。新郎側もホテルあるの?」
「ええ。弓原家と言うより、お義母さまのご実家の方が」
再び朱美の顔が困った顔に戻る。『家のホテルで』なのだろう。
もう、どうせだったら『二回』やってしまえっ!
「あぁ、そうなんだ。凄いね。お義母さんとも仲良くしないとね」
少佐は口角を上げて笑顔になる。庶民とは別世界のようだ。
朱美は再びバックの所に戻ると、残りの荷物を詰める。
「そうですね。お義母さまは少佐と『同じ匂い』がしますから」
そう言って朱美は両手でバッグを持つと、笑顔で少佐を見る。
言われた少佐は『香水』なんて、付けた覚えはない。
「ん? それは、どういうこと?」
本当に判らない。首を振って真顔で朱美に聞く。
すると朱美は、全身を上下に振りながら、にっこり笑って答える。
「それはですね。『普段はお優しいのに、怒ったら凄く怖い』です」
「そうかなぁ。はははっ」
言われた少佐は『まんざらでもない』感じで笑う。
大尉の方を見て、自分を指さしながら『どう? 合ってる?』なんて聞いているが、ドアノブに手をかけている大尉だって、困っているではないか。
再び少佐は歩き出した。出口に向かって、今度こそ朱美を送り出すのだろう。
「新婚旅行は、何処に行くの?」
「近場にしようって思っています。箱根とか」
そう言いながら朱美も今度は出口に向かう。
「そう。海外に行こうとか、思わないの?」
少佐の質問は続く。朱美は右手を振りながら立ち止まる。
これは『質問』ではない。そう感じた朱美は慎重に答える。
「海外ですか? 今、世界中で戦争しているのに。ですか?」
言われた少佐も立ち止まった。少し考えている。
「そうだったねぇ。でも、海外に行くなら『良い所』紹介するね」
やはり『質問』ではなかった。これは『警告』だ。
少佐の言う『良い所』とは何処か。朱美は『研究所』と理解する。つまり『逃げるなよ』と、念を押しているに等しい。
「ありがとうございます。箱根、推しておきます」
朱美が『礼』を言うと、やはり少佐も、納得して頷いたではないか。やはり、暫くこの仕事から、逃れられそうにない。
「それよりこの仕事って、『産休』は取れるのですか?」
止めるのが無理なら、せめてお休みはどうだろう。朱美はそんな気持ちで聞いた。少佐の顔がパッと変わった。
「おやっ、もう『おめでた』なの?」
少佐が朱美に近付いて、お腹の辺りをジロジロ覗き見る。まるで 『診察でもしましょうか?』な、勢いだ。朱美は慌ててお腹を押さえる。止めて! 冗談じゃない!
「いえいえ。まだまだ。『もしも』の話です。『もしも』です!」
語尾を強くして少佐の診察を断る。少佐は朱美の顔を見た。
「そうかぁ。でも、今『産休』は、旦那さんでも取れるから」
「そうでしたね。相談してみます」
例によって、少佐の目が笑っていない。お休みもダメらしい。
少佐が再び歩き出すと、大尉がドアを開ける。
「そうだ。結婚式の席次が決まったら教えてね」
ドアの所で、少佐が声を掛けた。やはり少佐は結婚式に出席する気のようだ。
秘書達は少佐が扉の所まで来て、お見送りをしているのを見て、全員立ち上がっている。全員に聞こえているだろう。
「それでしたら『少々お待ち下さい』の、お隣でも宜しいですか?」
朱美が本部長に言われた通り、少佐に告げた。すると確かに少佐は顔色を変えたではないか。
「えっ? 『少将』の? どなた?」
「お名前まではちょっと。何せ『少々』ですから」
少佐は『少々』慌てているが、朱美は落ち着いた様子。むしろ念を押すように言ったものだから、少佐も確信する。
「そうかぁ。『偉い人の予定は未定』だものねぇ。でも、そんな偉い人の隣は、お金払って『休日警護』に、行くようなものだからなぁ」
そう言いながら左手で『出口はこちら』と指して動かない。どうやら本気で悩み始めたようだ。
朱美は何も言うまいと思って、会釈しつつドアを通り抜ける。
ドアを出た所で朱美は振り返る。少佐とはここでお別れのようだ。
まだ仕事があるのだろう。朱美はお辞儀した。
「では、失礼します」
少佐は、来たときとはまるで異なる待遇で朱美を送り出す。
「大尉、お送りして差し上げて」
そう指示すると、少佐が部屋の奥へ消えて行く。
「はっ!」
自分の護衛より『客人の護衛』の方を、優先したようだ。
「あら、井学さん『大尉』なんですね。よろしくお願いします」
朱美は『懐かしい知人』のように大尉を見つめ、丁寧にお辞儀する。そして、左右の秘書室の面々にもそれぞれお辞儀する。
秘書室の一同は、出口で再び笑顔でお辞儀をする朱美に、もう一度お辞儀して『少佐の客人』を笑顔で送り出した。
「ご案内します」
廊下に向かって手を差し出した大尉だけが、笑っていなかった。




