恋路の果てに(三十九)
行先を聞いた少佐は、朱美の方を向いたまま左手を伸ばす。
「会社です」
朱美がそう答えると少佐は、その伸ばした手の平を上にして、『持って来い』とばかりに、手首を二回連続で曲げる。
大尉は机上に置いた『トレイ』にぶちまけた荷物の中から、素早くスマホを取り出すと少佐に歩み寄る。
「ずっと?」
聞きながら少佐はスマホを受け取る。見れば画面はロックされたままだ。大尉は無言で一礼して、再びトレイの前に戻る。
「ずっとです」
それは嘘だが、本当のことは言えない。
大佐はそれを聞くと『あらま大変』という風に、口を曲げ、少し首を傾げて朱美を見る。
その間にスマホを持ち直すと、朱美から見えない所で指紋認証で解除する。このスマホは『軍の支給品』だ。指紋でも暗証番号でもロックの解除なんて『お手の物』である。
机上に持ち上げたとき、既に位置アプリを起動していていた。
「そのようだね」
少佐は左手にもったスマホを見ながら、机上に肘を付けて固定する。右手の人差し指を画面上で滑らせながら、JPS(ジャパン・ポディショニング・システムの略)の履歴を参照し始めた。
「随分と忙しかったみたいだねぇ」
JPSの履歴は、昨日の朝八時半に『NJS』。次は今日の夕方十七時三十三分に『NJS』。最後の記録は『制限地区』だ。
つまり『会社』『会社』『ココ(民間非公開)』だ。朱美は昨日の朝から今日の夕方まで、ずっと会社に居たように見える。
しかし実際は違う。
会社が支給したスマホ以外は、オフィスへの持込は禁止されている。だからエレベータホールに用意されている個人ロッカーに、スマホの電源をOFFにして放り込んだ。
そして翌日もずっとOFFのままにして持ち歩き、今日会社を出る時に電源をONにしたのだ。
「徹夜で仕事でした」
それは嘘ではない。広い意味で。だって『徹と付き合え』は『命令』だった訳だから。
しかし少佐は、疑り深く朱美を観察している。
忙しかったと言う割りには元気そう、ではないか。だいぶ『お疲れ』のご様子。目の下にクマ。頬も若干へこんでいるような。
「随分と忙しかったんだねぇ」
「はい。納期が近かったもので」
朱美が答えると、少佐は『そうかそうか』と頷きながら、スマホに目を移す。そこで電話の通話履歴を表示する。
「タイムカード、確認しても良い?」
パッと顔を上げて、にこやかに聞く。すると朱美が、慌てるように右手を振り出した。
少佐は前のめりになる。大尉もトレイの前にいるが、そんな少佐を見て体重を前に掛ける。『確保!』の合図が来たら、直ぐに飛び出せるように。
「家の会社、タイムカードないんです」
慌てている理由はそれだった。
少佐は左手の肘が滑ってズッコケる。顔は冷静を保っているが、姿勢を崩した大尉から見ても、意外に思ったのは確かだ。
「徹夜したら、どうするのぉ?」
「あっ、あのぅ、自己申告なんです。勤務届の記入は」
「えぇ? そうなのぉ?」
朱美は『そうなんです』という、少し困惑した顔で頷いている。
「じゃぁ、お薬屋さんに戻る?」
苦笑いで朱美に聞くと、朱美はまた右手を横に振った。
製薬会社は製薬会社で、それはもう大変なのは良く知っていたからだ。定時で帰れる今の方が、良いに決まっている。
「今の会社で頑張ります」
「だよねぇ。よろしく頼むねぇ」
朱美の決意に、少佐も苦笑いで依頼する。元々朱美は、少佐の命令でNJSに出向しているのだ。
それはNJSの『ハッカー』について、情報を得るためだ。
「所で、この数字は何なのかな?」
そう言って、朱美の方にスマホの画面を向ける。途端に朱美の顔に緊張が走る。少佐はピンと来た。怪しい。どうやらこれは『秘密の暗号』に違いない。直ぐにそれを、大尉の方に見せた。
大尉はトレイをガサガサすると、手帳を発見して中を見る。数字と対応する文字が、羅列されているではないか。
直ぐに少佐に差し出して、再び無言でトレイの前に戻る。しかし、今度は鋭い目つきで朱美を睨み付けた。
「なぁにぃがぁ、書いてあるのぉかぁなぁ?」




