恋路の果てに(三十八)
「連れて行け!」
少佐の声が部屋中に響く。相当『お怒り』のようだ。それでも追撃の一撃を加えることはない。
むしろそんなことをしたら『靴が汚れる』と、思っている節がある。汚い物を見る目で、お見送りだ。
そんな『裏切り者と一喝された男』が、兵士二人に担ぎ出されて部隊長室を出て行く。
少佐の恫喝が久し振りだったのか。それとも守衛の士官は初めて聴いたのか。それは判らない。ただ、入り口の扉から顔を出して、覗き込んでいる。
すると大尉が左手を真っ直ぐ前に出し、手の平を下にして『良いから』と振っているのに気が付く。直ぐに会釈して、扉を閉めた。
部隊長室は再び静かになった。いや、朱美のすすり泣く声だけが、小さく聞こえている。外はもう暗い。窓に朱美の姿が鏡のように映っているが、朱美自身もそれに気が付く様子はない。
残されたのは同郷の三人。少佐と大尉と、そして出来れば帰りたいと思っている、朱美だけだ。
「いやぁ、済まなかったねぇ」
少佐はゆっくりと歩きながら自席へ向かう。
歩きながら机の片隅にある『飾りガラス』の容器を見て思い出す。中身は『薄荷飴』。少佐が『朱美に対するジョーク』のつもりで用意させたものだ。何だか趣味が悪い。
それを朱美に『食べる?』と、笑顔で勧めて見るも、朱美は涙も拭かず、ただ首を横に振るだけだ。
朱美の正面に大きな机があって、首まで支えることができそうな、大きな背もたれの付いた椅子がある。
少佐はそこへ着席すると、両肘を机の上に付け、顔の前で手を組み、重ねた親指を顎に付けてから朱美の方を直視する。
少し上目遣いの鋭い目。じっと朱美を観察している。その観察姿勢は、少佐の癖なのだろうか。
「泣いているじゃないかぁ」
そう言って、大尉の方を見る。まるで『大尉が泣かせた』と言わんばかりの言い方だ。
言われた大尉は、『え? 俺ですかぁ』と、まるで『先輩の冗談』に付き合う後輩のように、笑顔で頭を掻く。
「ハンカチくらい、貸してやりなさいよぉ」
そう言って首を振り、大尉に『ウインク』すると、大尉が慌てて動き出す。
しかし、朱美もハンカチを探すが、どこにもない。
当然だ。婦人服に通常ポケットは付いていないので、ハンカチの定位置は『バックの中』である。それがないのだ。
朱美は気が付いて袖口と人差し指で涙を拭く。
差し出された大尉のハンカチは、軽い会釈と震えるように振った右手を合図として遠慮した。
「おや? 荷物はどうしたんだい?」
朱美は答えない。いや、答えられない。もう、どんなバックだったか忘れてしまった。なんならあげるから、家に帰して欲しい。
答えない朱美を見て、少佐は机上の黒電話に手を掛けた。
受話器を上げると、気が短いのだろう。ダイヤルを回すこともなく、直ぐに話し始める。
「荷物はどうしたんだ? そうだ。協力者の山崎朱美さんのハンドバックだ。直ぐに持って来なさい」
それだけ大きな声で叫んだら、電話でなくても隣の秘書室に届きそうなものだ。
少佐が受話器を置くのと同時に、見覚えのあるプラスティックのトレイが見えた。咄嗟に朱美は『今日のバック』を思い出す。
持って来た秘書の方に、小走りで大尉が近付いて行く。まるで『早く朱美に返さないと申し訳ない』という感じだ。
入り口付近で、秘書と『そこまで持って行きます』『良いから良いから』『えぇ? じゃぁ』『はいはいありがとね』と、でも言っているかの駆け引きがあって、大尉がトレイを受け取る。
すると秘書は、少佐の方に会釈して回れ右する。そのまま扉の向こうに消えて行った。再び部屋は三人になる。
「まぁ、座って」
笑顔で少佐に勧められた朱美だが、困惑するばかりだ。
何処に椅子があるのだろう。慌てて振り返ると、すぐ後ろに椅子があるではないか。もう一度少佐の方を見ると、『それそれ。どうぞ』という感じで右手を差し出す。
朱美は会釈してその椅子に座った。座る瞬間、大尉がトレイを持って近付いて来るのが、横目に見えた。
しかしそれは朱美の横ではなく、少佐の横である。
大尉が『あっ、間違えちゃった』と、頭を掻く様子もなく、少佐の横に置く。むしろ少佐の方が笑顔で、優しく朱美に聞く。
「今日は、何処へ行っていたの?」
バックの中身が勢い良くぶちまけられる音が、部隊長室に響く。




