恋路の果てに(三十七)
これは歯を褒めた後、拳銃を口に入れ『ズドン』とやる奴だ。
そうでなければ、バキッと一発パンチでも入れて、歯がポロポロと落ちて、『どうしたんだい?』と、嫌みの一言。
色々な可能性を考えて、朱美は初めて涙する。
今までの人生で、こんなに怖いことなんて、一度もなかった。
実家でのんびり過ごす筈の週末なんて、もう考えられない。
誰に助けを求めることも出来ず、コンクリートに囲まれた暗い部屋で、この後『短い』一生を過ごすのだ。それとも、死ぬことすら。
朱美の涙を見ても、少佐は気が付かない振りである。
「あのぅ、少佐、私は?」
そのとき、少佐に話しかけた者がいた。ずっとリモコンを握っていた『捨て駒』の男だ。泣いてはいないが、朱美と同じようにおどおどしていて、自分を指さしている。
少佐はそっちには気が付いて、朱美の手を離す。朱美には『愛想笑い』を振りまき、肩を再び『ポンポン』と叩いて歩き出した。
朱美は、歯が無事に済んで、ホッとする。しかし油断はできない。いきなり少佐が振り返って、一発入れられることも覚悟しなければならなかった。
気が付けば『休め』の姿勢のまま、じっと観察している男がいる。
見覚えのある顔。朱美は咄嗟に『四丁目の井学さんだ』と思ったが、その井学大尉は無表情で、尚も『観察』をしているだけだ。
どう見ても『少佐側』の人間。助けてくれそうにない。
「協力、どうもありがとうね」
「いえ、どういたしまして」
少佐は『捨て駒』の男の前に立っていた。
朱美から『優しい笑顔』で話しかけている少佐の姿は見えるが、『捨て駒』の男の方は、横目にも見ることができない。
それでもお辞儀の瞬間、頭がチラっと視界に入った。それだけだ。
「私は何も聞いていないのだが、何か約束をしたのかね?」
少佐は優しく男に聞き、周りにも確認をしている。しかし、誰からも返事はない。すると男は、焦り始めたようだ。
「き、危険な、し、仕事だから、あの、じ、じゆ」
「うんうん。落ち着いてぇ」
ゆっくりなだめる少佐の声。直ぐに男が『スッ』息を吸いこむ。
「自由にしてくれるって! 解放してくれるって!」
必死さが良く伝わって来る。男は声を上ずらせながら少佐に訴え掛けた。言われた少佐は『なるほどなるほど』と、頷いている。
「誰に言われたんだい?」
一層にっこり笑いながら、後ろに控えている兵士を手招きで呼ぶ。その手招きを見て男は振り返る。そして、再び少佐の方を見た。
「看守に言われましたっ! 本当ですっ!」
いつの間にか井学大尉が歩き出し、少佐の後ろに来ていた。足を広げて『休め』の姿勢を取っているが、顎を引いて目は鋭い。
「何と言う看守だい?」
「あのっ、い、いつもの、看守です。少佐! うぐっ」
兵士の一人が、無言で男を羽交い絞めにしていた。もう一人の兵士も無言で、手に持っていた『高電圧手錠』を開き、暴れ始めた男の手を、無理やり重ねるとそれを取り付ける。
「や、やめろっ! 約束、やくそっ うぐっ!」
男の大きな声が部屋に響き、『カチャン』という音は掻き消されたかのように思えた。
しかし、男の隣に立っていた朱美の耳には、それが届いたようだ。音に合わせて『ビクッ』と驚いている。
大丈夫。そんな小さなことで『ビビった』からと言って、笑う者はいない。怖くて、涙が止まらなかったとしてもだ。
「騙したなっ! 俺を騙したんだな!」
男が兵士二人に抑えられつつも、暴れている。そんな姿を見ても少佐は薄笑いを浮かべるだけで、返事をしない。
その後ろで立つ大尉に笑顔はないが、いずれにしても男の言い分を聞くつもりはないようだ。
少佐は『スイッチ』を持っている方の兵士を手招きをする。その兵士は、もう片方に目配せして頷くと、兵士一人に男を任せた。任された兵士はが更に力を入れたのだろう。男の顎が上を向く。
「ちきしょーっ! 自由にしてくれるって、言ったんだぁ!」
相変わらず暴れているが、食事でも制限されていて力が出ないのだろう。一歩も動けない。少佐の方も、それに答える様子はない。
その間に少佐は、兵士からスイッチを受け取ると、簡単な説明を受ける。『なるほどぉ』と、関心事はスイッチの方だ。
「放せ! ちっきしょおぉぉ! 俺は自由になるんd」
バチンと音がして急に静かになる。まるで、ビンゴ大会のようだ。
「裏切り者を、許す訳がないだろうがっ!」
言われた男は既に意識がない。少佐はスイッチを投げ捨てた。




