試験(七)
玄関の扉が開く音がした。その音で可南子には、誰が帰ってきたのかが判る。
扉の蝶番についた酸化鉄がゆっくりと剥がれ、やや赤錆たネジが動く扉に驚きつつも扉を支える。
そのネジの呟きが小さいのが琴美。
『いてーよ。馬鹿!』と言ったときは優輝だ。
可南子は洗い物の手を止め、水を切るために手を振った。
エプロンでちょっと右手の水分を取ると、テーブルに置いてあったパンフレットを摘んで玄関へ向かう。
「おかえりー」
「ただいまー」
ダイニングの扉を開けると同時に琴美が来た。正解だ。
可南子は右手に持ったパンフレットを琴美の前に突き出す。しかし端を持っているだけなので、だらりと垂れ下がった。
「なーに?」
可南子が説明をする前に琴美が聞いてきた。
「試験の案内よ。真里谷さんに頂いたの」
「真里のお母さん?」
「そうよ」
そうに決まっている。真里はさっきまで一緒に居たではないか。
可南子がそう思ったかは判らないが、当たり前だという雰囲気を醸し出していた。可南子は、あと四枚の小皿と、七つの茶碗、四膳の箸を洗わなければならないのだ。
「何?」
「ジャパネットの試験よ」
可南子はそう言って、めんどくさそうに言って腕を伸ばした。
勢いで琴美はそれに手を伸ばしたが、垂れ下がったパンフレットを受け取るために、両手でへりくだる姿勢になった。
「ありがたき、しあわせにございます」
うやうやしく受け取った琴美の姿を見ても、可南子は口元を少し曲げただけだ。
自分の手からパンフレットが離れたのを見て、直ぐにダイニングに戻り、時計を見た。
「大変!」
可南子はキッチンに急いで戻る。開けっ放しのリビングのドアを一人残された琴美が閉めた。
四角いガラスの向うに時計がぼやけて見える。それを見て琴美は何が大変か直ぐに理解した。
もうすぐ『デカンタ刑事』が始まるのだ。
録画という文明の利器からは程遠い母にとって、一分一秒は無駄にできないのだ。
だからと言って琴美は、母の代わりに録画をしようとは思わない。
録画という概念がない者には、再生という概念もないからだ。
それにしても、たかがテレビ番組を見る為に、そんなに慌てなくても良いではないかと思う。
デカンタ刑事が解決する事件は、そんなに重大な事件ではない。
賞味期限が切れた豆腐がまだ売っていたとか、生産者の写真が全然別人だったとか、そんなローカルな話題ばかりだ。
それに、決めのセリフが登場するのは二十七分と決まっている。
それから五分のデカンタCMになって、三十二分から七分間で事件が解決。エンドロールに二分、次週予告一分三十秒、関連商品のCMが三十秒。
ここでスポンサーが切り替わる。四十五分からは天気予報だ。
まぁ、今を一生懸命生きる。それで良いではないか。
琴美は母の生き方を否定する気はない。琴美は小さく頷いて廊下を歩いて階段を昇って行った。
母のことを、結構理解している琴美ではある。
しかし自分の身に、一つ予想外の出来事が起きていたことに、まだ気が付いていなかった。