恋路の果てに(三十)
やっとのことで弓原徹は職場に着いた。やっぱり慣れた職場は良い。『平穏』そのものである。
自分の机に向かうまで、時々知っている顔を見つけて会釈。すると向こうは、妙に『驚いた顔』で見る。
何だか判らんが、そんなに驚かなくても良いではないか。
そんなに家の母親が倒れたことが、有名になっているのだろうか。
別に『只のお嬢様』かもしれないが、今は普通の主婦である。
さっきの母の件、結局『ナナ・サン』で『G』に掛けた。
あの散らばった新聞紙は、騒ぎ出した母に代わり、父が新聞紙を丸めて持ち、『G』を撃退した名残だろう。
そして、うっかり『直ぐに皿を洗わないからだ』とか何とか言っちゃって、母が泣き出す。
『私を守るって言ってくれた貴方は、何処へ行ってしまったの?』
決め台詞はこれだ。思い浮かべて少し笑う。
腕を振りながらの熱演は、まるで『宝塚』のようである。なかなか『昔の癖』は、直らないのだろう。
繰り返すが、今は普通の主婦である。
『ここにいるよ!』
それで焦った父が取り繕うが、新聞紙にくるんだ『G』を手に持ったまま、母に近付いてしまう。
母は新聞紙におののき、そのままバタンキュー。閉幕。
やっぱり残業して、明日お見舞いに行くことにしよう。決まり!
弓原は自席にカバンを置いて、先ずは『出張先からの帰還報告』をしに、課長の参河席へ向かう。
遠目に見て課長の参河は、もう仕事をしているのか下を見ている。だから近付く弓原に気が付いていない。
「おはよーございまーす」
同じ課の一年先輩の狩谷に挨拶する。しかし、目を丸くしているだけで、返事はない。まぁ良い。忙しいのだろう。
後はダイナマイトクラスの楯川女史、四角い顔の知坂先輩に会釈。二人から返事がないのは、いつものことだ。他の人はまだのよう。
弓原は参河課長席に着いた。下を向いていた課長は、朝からスマホでニュースを見ているようだ。
まさか『天気予測』だったりして。そしたら笑う。
「課長、おはようございます」
弓原は、いつもの調子で参河課長に声を掛ける。すると課長は、ヒュッと顔を上げ、弓原を見た。
瞬間的にもう一度下を見た後、直ぐに顔を上げる。
「お化けが出た!」
「何を言ってるんですかぁ」
弓原は笑って両手を広げる。しかし、普段から冗談を言わない参河課長が『お化けが出た』と言っているのだ。
弓原は咄嗟に思う。『もしかして、目の下にクマが?』と。
やり過ぎてしまったと、一方で反省はするが、後悔はない。
確かに『寝不足』ではある。しかしそれで『お化け』呼ばわりされては、この部署は『全員お化け』の集まりではないか。
「お前、知らないの?」
「何をですか?」
「これだよ。これぇ!」
そう言って、スマホのニュースを弓原に見せた。
それは『使用禁止の個人携帯』ではないか。入り口のロッカーに入れなくて、良かったのだろうか?
そう思いながらも小さな画面を覗き込むと、それはまるで『身分証』のようである。
左側に自分の写真があって、その右には名前と肩書がある。
「いや課長、俺、もうイー407降りましたからぁ」
今日から所属は元通り『緊急警報課』に復帰だ。そういう意味を込めて言ったつもりだった。
しかし参河課長は、困った顔するではないか。
「お前コレだよコレ! 行方不明! お前、海に沈んじゃったの!」
スマホの画面を叩いて弓原に良く見せたが、画面はもう『イー407』の写真になってしまった。
ちょっと懐かしいではないか。二度と乗りたくはないが。
その瞬間、さっき『モップ』で脅されたことを思い出す。
「私は三日前から『イー407』には乗艦していませんよ?」
すると参河課長の顔がパッと明るくなった。
「そうだったの! お前、運がいいなぁ」
とは言ったものの、ニュースでは百四十人もの乗組員を心配する放送がまだ流れている。課長は直ぐに真顔に戻った。
「いやー戦闘機が海に墜落しちゃって、乗艦できなかったんすよぉ」
確か『強制された筋書き』はこうだ。あとは鈴木少佐がワニ、じゃなくて、サメに食われたと言えば完璧。ごめんね少佐。
「お前、今直ぐ病院行って、診て貰って来い! 業務命令だ!」
どうやら少佐の出番はなく、弓原も入院になってしまったようだ。




