恋路の果てに(十九)
「ちょっと待て。何かおかしいぞっ」
望遠鏡を覗いていた黒松の声が、急に小さくなり、ヒソヒソ声で話し始める。
横顔を覗き見た黒井は、見えている黒松の左目を見て、急に大人しくなった。
遊びは終わりだ。そう語っている。
「誰ですか?」
小声で黒井が聞く。望遠鏡は一つしかない。黒井は下の機械を調整するのに必死だ。
「判らないけど、二人居る。早くしろっ」
「急かさないで下さいよ。何も聞こえないんですから」
ヒソヒソ声で言い合う二人。
組織人としての先輩は、望遠鏡を覗く方の男『黒松』である。『ブラック・ゼロ』のメンバーは、誰が決めたか知らないが、全員頭に『黒』の字が付く。
作者も間違える程、紛らわしいのだが『規則』では仕方あるまい。
一方の、ガチャガチャと機械を操作する方の男『黒井』は、人生の先輩ではあるが、組織人としては後輩だ。
しかも『新入り』である。だから黒松から教わることは多い。
「黒井ぃ、お前、機械の扱い下手だなぁ。貸して見ろっ」
望遠鏡を覗くのを止めた黒松が、しかめっ面で本名の黒井に言う。黒松の本職は『メカニック』なのだ。機械油とグリスにまみれた右手(手洗い済)を振り上げた。
「こうするんだよっ!」
左の角をチョップで一撃。叩いて直すのは、古今東西共通か?
すると同時に天井から『ドンッ』という鈍い音がした。二人は思わず天井を見上げる。
「また『おっぱじまった』のか? やるなら静かにやれよなぁ」
驚いた訳ではない。ここは『そういうこと』をするホテルだ。それでも黒松が、上を見て苦情を言う。
黒井も羨ましそうに天井を見上げ、同意するしかない。
「さっきまで凄かったですもんねぇ。お盛んなコト」
今度は『五反田!』とか『品川ぁ!』とか、そういう声は聞こえてこない。
収音機はさっきまで正常だった。それが、上から聞こえて来る『余りの絶叫』に、一旦スイッチを切ったのだ。
それを再開したらこのざまだ。一体、どこで調達したものやら。
二人は揃って深い溜息をして前を向き、任務に集中しようと聞き耳を立てた。今度は良い感じだ。
『ここの防火責任者は、私なんだぞ!』
スピーカーから突然大きな声が聞こえてきて、二人はそれに驚いた。そしてゆっくりと顔を見合わせる。
「誰だ? 『石井少佐』か?」
「じゃないですか? 『責任者』なんですよね?」
そう言いながら、黒井はアタッシュケースに手を掛けた。
「殺れんの?」
望遠鏡を覗いたままの黒松が黒井に聞く。
「ちょっと遠いかな」
黒井は窓を少し開け、狙撃銃を構える。一応様になっているではないか。
「距離百五十。天候晴。風力ゼロ」
望遠鏡を覗きながら黒松が言う。
「いや、二百はあるよ」
スコープを覗きながら黒井が言い返す。
「じゃぁそれで」
「何だよそれ」
そう言いつつ、ピントが合ったようだ。しかしカーテン越しに見える人影は二つ。どちらが『石井少佐』なのか判らない。黒井は聞く。
「どっち? 右? 左?」
「判らん。この際、両方とも殺っちゃえよ」
「馬鹿。三八式じゃ無理だよ」
黒井が構えているのは、どうやら古い狙撃銃のようだ。
「何言ってんだよ。使用実績のある銃が一番なんだよ。後は腕次第」
望遠鏡を覗いているだけの黒松は、好きなことを言っている。
「一応『狙撃用に改造した奴』みたいだけどさぁ」
「だろう? 文句言っていないで一発で仕留めてみろよ」
「黒田もっと新しいの調達して来いよぉ。あぁどっちぃ?」
スコープを覗く黒井が口にした『黒田』も、当然『ブラック・ゼロ』の構成員である。
「もう右の奴で良いんじゃね? あぁそれね。どっかの『博物館からパクッて来た』って。黒田が言ってたよ?」
黒井はそれを聞いて、直ぐに狙撃姿勢を解いた。そして渋い顔。文句の一つも言いたそうだ。しかしその前に、再び『天からの叫び声』がする。二人は溜息をして、聞き耳を立てた。




