恋路の果てに(十)
水も滴る良い女が現れるのを、徹は待っていた。そこで思い出す。
さっきは嬉しさの余り、服を着たまま表裏、『互いに素』で上下左右に切り替えた。少しは済まなかったと、思い至る理由だ。
だって、命の危険を乗り越え、謎を解きやって来た。そんな数々のミッションをこなしてきてからの『朱美』なのだ。
無事に逢えたのが嬉しくて、ついついそうしてしまったのだ。
それに朱美だって、いつもとは違う服だった。
まるで徹を挑発するかのような。そんな恰好をしていたら、どうなるか? 責任が無いとは言わせない。
まぁ、それでも多分、予想通りなのだろう。朱美は『気が利く』と言うより『先が読める』と言った方が良い女なのだ。
そう思っていると、石鹸の香りと共に朱美が姿を現した。
待っていた徹は、再び思う。何をしても絵になる女であるなと。
「ねぇ。池袋に『何』しに行くの?」
しかし絵ではない。現実の朱美が、バスタオルで髪を拭きながら聞いた。
徹は朱美の方を眺めていたが、見えるのは背中側。それでも笑っているのは判る。そして、上機嫌であることも。
「水族館だよ。リュニューアルしたらしいよ?」
「貴方、お魚好きなの?」
振り返った朱美が、やはり笑っている。嬉しいではないか。
一方の朱美は思う。徹が『肉食』ではなく『魚食』であったことを。初めて知った。
ふと結婚した後のことを考える。朝食は『アジの開き』、夕食は『サンマの塩焼き』かしら。良し良し。メモしておこう。
「違うよ。ペンギンを観に行くんだよ」
徹の答えに、朱美は再び振り返る。笑顔だが、さっきとはまた違う笑顔だ。だが、徹にとって朱美の笑顔は、何物にも代え難い。
「ペンギンって、一応ひっ、鳥よ?」
ペンギンを『人』と言いそうになって、朱美は言い直す。
きっと『本部本部長』を思い浮かべていたのだろう。危うく言い間違える所だった。苦笑いだ。
「そうだよ? そのペンギンが『空を飛ぶ』んだって!」
そんな朱美の言い間違えに、気が付くことはないようだ。朱美はホッとする。それよりも徹の目が、まるで少年のように輝いていることが判った。本当にペンギンを観に行きたいのか?
まぁ良い。どうやら徹は『魚好き』ではなく『鳥好き』のようだ。朱美は朝食と夕食のメニューを書き換える。
「ペンギンは、空を飛べないから『ペンギン』なのよ?」
もっともらしく、朱美が言う。しかし徹は、流石の鳥好き。ペンギンの名前について、由来を知っていたらしい。
「違うよ。元々『オオウミガラス』がペンギンだったんだよ」
「そうなの?」
朱美は判らなくなって、首を捻る。
考えて欲しい。『オオウミガラス』という名前があるのに、何故に『ペンギン』を名乗る? 多分、日本語と英語なのだろう。『オオウミ』=『ペン』で、『ガラス』=『ギン』。
違う気もするが、まぁそれは良い。
「ほら『レッサーパンダ』だって、最初は『パンダ』だったんだよ。それと一緒だよ」
得意気に説明する徹の補足を、朱美は聞き流す。
追加情報の前に、先ずは『オオウミガラス』の方を、先に解決して欲しい。そう思ったからだ。
「徹、今日は何曜日か判ってる?」
話題を変えた朱美に、徹は我に返る。無事に『退役』して朱美に出会えた今、重要なのは『社会復帰』することだ。
頭を捻って考える徹を、心配そうに見つめる。
「んー。判ってない。何曜日?」
確か『カレーを食べるのが金曜日』と聞いていた。果たして前回カレーを食べたのはいつだったのか。
朱美はガクッとなって、正解を言う。
「大丈夫? 金曜日よ?」
平日ではないか。徹はカレンダーを修正し始めた。それでは水族館に行っている余裕など、有りはしない。
しかし今の徹には『曜日の感覚』だけでなく、『時間の感覚』もなくなっていた。急に眠くなってくる。
「今日は、休んじゃおうかなぁ」
「何言ってんの! あ・れ・だ・け・元・気・だったのにぃ?」
ちょっと吹き出す。バスタオルをイスに掛けた朱美は、床に散らばっている服を集め始める。呆れた目を徹に投げかけながら。
朱美だって、着替えて会社に行くのだろう。
しかし二人は、まだ知らなかった。
地上では徹が『行方不明』として、有名になっていることを。




