恋路の果てに(九)
「今からじゃないよ。まだこんな時間だよ?」
徹はベッドサイドのデジタル時計を指さした。多分合っているであろうその時計によると、朝の四時である。
徹は知らないだろうが、朱美が時計を合わせ、目覚ましを朝六時にセットしている。
山手線で品川から池袋まで半周しても、大体三十分だ。
「そうね。それに『今から』なら『シャワー』に行きたいわ」
笑顔の朱美が、バスルームを指さしてリクエストする。
徹は直ぐに頷いた。きっと『シャワーに行く必要がある』という事態に、同意したのだろう。
それを見た朱美が、早速起き上がった。髪を揺らして後ろに回し、ベッドサイドに一旦座る。するとその横に、徹もやってくる。
「ひ・と・り・づ・つ」
おでこを朱美の人差し指で押さえられ、徹は動けない。スッと立ち上がった朱美を、ただ眺めるだけだ。
一旦バスルームに行きかけた朱美が、急に方向を変えた。
机上に置いてあったバックに歩み寄ると、ガサゴソと探し物をして振り返る。
「何見てんのよぉ」
「良いだろぅ」
文句を言う朱美に、怒った様子はない。もう一度ベッドに戻って来た朱美を、徹は優しく迎え入れる。
が、しかし、伸ばした手に渡されたのは、小さな手帳だった。
「これなぁに?」
一昨年の手帳ではないか。こんな物を一体? 不思議な顔をして手帳から朱美の顔にに視線を戻す。下からゆっくりと。
しかし、その手帳自体に、徹は見覚えがあった。
「手帳、燃やした?」
朱美の一言に、徹はピンと来た。
送られてきた『謎の数字三桁』を因数分解して解いた指示が『手帳を燃やせ』だったのだ。そのときは確信がなかった。それでも徹は、暗号を全部覚えてから燃やして来たのだ。
確かホテルに着くまでは、覚えていた気がする。
何も証明はできないが。
「うん。燃やしたよ」
徹が朱美を見上げて答える。朱美はその顔を見ても、安心はできないようだ。疑り深い顔をして、確認して来る。
「本当に? 『後で燃やそう』とか『ゴミ箱に捨てた』は、絶・対・ダメだからね?」
手帳を指さす腕を強く振る。しかし徹は、頷きながらも違う所を見ているようだ。
「燃やしたよぉ。火災報知器鳴らないようにするの、大変だったんだからぁ」
それを聞いて朱美は安心したようだ。手帳を指さして徹に言う。
「じゃあこの手帳を、一頁づつ捲って」
「捲るだけ?」
不思議な指示に、徹は聞き返す。すると朱美は『うーん』と考えている。周りをキョロキョロして、何かを見つけたようだ。
スタスタと探し出した何かを求めて歩く。机の前に行くと立ち止まり、ボールペンを持って直ぐに戻って来た。
「じゃぁ、このボールペンで『書く振り』だけして」
「書く振り?」
「そうよ」
イマイチ意味が判らない。それでも徹は手帳を開く。するとそこには、既に『新しい暗号』が記載されているではないか。思わず徹は、朱美を見上げる。
しかし見えたのは、朱美の後ろ姿だった。
髪を揺らしながら歩いて行く朱美。床に落ちたバスタオルは、どうやら放置のようだ。
きっとバスルームに、新しいのがもう一枚あるのだろう。
そんな後ろ姿に、徹はもう一度確認する。
「古い暗号は?」
「忘れて良いわっ」
振り返って笑顔を徹に魅せ、あっさりと答える朱美。何だか徹は『朱美に振られるときはこんな感じ』なんだろうか? とも思う。
「判った」
「よろしくねっ」
徹の短い答えに、朱美は右手をあげてバスルームに消えて行った。
徹は机に向かい、朱美の指示に従う。既に記載された暗号の上を、『ボールペンで書く振り』だ。そして溜息をする。
「俺の字って、こんなに汚いのかなぁ。まぁ、俺は読めるけど」




