恋路の果てに(二)
徹は玄関横の読み取り装置に左耳をかざした。それで玄関扉のロックが解除されるはずだ。
この世界、いや、正しくはこの世界の日本では、左耳の裏、頭蓋骨と皮膚の間に『認証チップ』が埋め込まれている。
まぁ、ほら、どこかの平行世界にある『マイナンバーカード』、それと同じだ。どんなものか知らないけれど。
『認証できません』
そう言われても困る。しかし徹はとりあえず『あくび』をした。
まったく。自宅の玄関扉を認証できないなんて、まるで死んでしまっているみたいではないか。
確かに、役所へ『死亡届』を提出すると、当然のことながら本人認証は全て無効になる。
それに、埋め込まれた『認証チップ』は少々特殊で『生きている間だけ反応する』のだ。
外部から電磁波を与えると、『認証チップ』はその電磁波で発電する。そして、チップ内の情報を外部に提供する仕掛けだ。
えーっと、ほら、どこかの平行世界にある『交通系ICカード』と同じだ。それの『生きている間だけ使える版』と考えて頂ければ幸いである。どんなものか知らないけど。(流石にそれは嘘)
徹は眠い目を擦っていて気が付く。生体認証はダブルだったのだ。直ぐに読み取り装置に右目を近付け、それから左耳をかざした。
『徹さん、お帰りなさい』
「ただいまぁ」
認証できたときの人工音声は、自由に変えられる。
だから朱美の認証を登録したときに、客人なら『朱美さん、いらっしゃいませ』だし、結婚して一緒に住むようになれば『お帰りなさいませ。ご主人様』と変更することも可能だ。
もちろん、個人を特定した認証のロックアウトについても、メッセージを自由に設定することができる。
ある日突然『この浮気者! 出てけっ!』に変えられない様に、普段から行動に注意されたし。と、一応警告しておこう。
誰も聞いちゃいない認証音声に、徹は惰性で答えると玄関扉を開けた。家の中はまだ暗い。皆、まだ寝ているのだろう。
玄関で靴を脱ぎ、そのまま脱衣場の方へ。カバンから洗濯物を取り出して、洗濯機に放り込む。カバンもそこへ放り出した。
再び廊下に戻って静かに歩き、自分の部屋へ向かう。
途中で『この世で唯一立ち入りが許可されない場所』である、楓の部屋の前を通り過ぎる。
角を曲がって自分の部屋に入る前、ふとリビングの方を見ると、明かりがぼんやりと点いていた。
だれか起きているのだろう。一応『帰還の挨拶』をしに向かう。
リビングの扉を開けた所にいたのは、父の勝だった。後ろ姿であるが声で判る。もちろん『背中』を見ても、判るのであるが。
寝間着姿で、どうやら電話中のようだ。会社からの緊急連絡で叩き起こされたのだろう。寝ている母の静を起こさないように気を使っているのか、ヒソヒソ話である。
いや、寝室で寝ていると思うのであるが。
「ただいまぁ」
小さく後ろから声を掛ける。するとドアを開ける音で気が付いたのか、父が振り返った。それでも軽く『敬礼』をするだけで、電話を止める気はないようだ。徹も手をあげて挨拶だけし、扉を閉める。
土産話には事欠かないが、今回はお茶請けもない。そんなんで楓に見つかっても面倒だ。あっ、今はまだ学生寮の方か。
とりあえず今は、そっと退散しよう。
徹は自室でスッポンポンになり、全部服を着替えた。【要望があれば、正確な手順と、衣類の詳細について記載するが、初稿では一旦保留とする】
着替えた洋服を持って再び脱衣所に行き、洗濯機に放り込む。何だかスッキリした気分だ。
そう思って鏡を見ると、髭がぼうぼう【要望があれ(りゃk】
徹は携帯から朱美に連絡しようとして止める。そこには既に、朱美からの『連絡』が、届いていたからだ。
それを見た徹は、机の引き出しから鍵を取り出すと、金庫から手帳を取り出す。朱美から『取扱注意』と厳命され、渡されたものだ。
「こんなのあったかなぁ」
携帯に表示された三桁の番号『731』を、手帳に記載された暗号表から探し始める。この時はまだ、笑う余裕があった。




