高速貨物列車の旅(三十)
通勤電車で『新聞』を読む。それは、日本でのみ発達した技術。いや、文化とも言える。
まるで、アコーディオンのように、細長く折り畳まれたそれは、本家のアコーディオンとはまた違う音色、手にしない者は、それを下品にも『ガサガサ音』などと言うが、そんなことはない。
手にした者しか、その良さが判らない。
そんな演奏を、暑い103系という名のステージで奏で続けている。それがこの国の『新聞』というものだ。
新聞は当然だが、紙で出来ている。
それも『新聞紙』と言う、いや、そうとしか言わない特殊な紙で。
上から読んでも、下から読んでも。そして、右から読んでも、左から、読んでも。
つまり、それはどこから読んでも『新聞紙』。人に優しい。
駅で開く筈のドアが、圧力で開かないことがある。
そうなのだ。人の力は機械に勝る時があることを、世の人はもっと知った方が良い。所詮機械は、万能ではないのだから。
ちなみにそんな時は、ホームから新聞でドアを叩いても無駄。
諦めて隣のドアへ行き、最後尾から誰彼構わず、遠慮なく押し込むしかない。
例えそれが、新聞を多少犠牲にすることであっても、だ。
読めればよい。
もみくちゃになって、夢と同じように破れてしまっても、それで、泣くことはないのだ。
破れてもなお、それが『新聞』であることには、変わりがないのだから。
じっと胸に手をあて耐え忍ぶ。
それもまた、狭い103系という名の通勤電車なのだから。
それに、思い出すと良い。
多少読み辛くなったとしても、下半分は広告ではないか。
向こう側に、折り畳むも良し。潔く破り捨てるのも、また一興と割り切ってながむる。
それもまた『新聞』である。
人混みに潰されたとしても、新聞を読むのに心配は不要。
どうせ電車が出発して『ひと揺れ』すれば、圧力が分散化して、新聞が読めるようになる。
やがてそれは、隣り合う者との協調『ハーモニー』となり、『弱冷』という『熱地獄』に揶揄された、揺れ続ける103系という名のコンサート会場で、波動となり広がってゆく。
一人、また一人と、徐々に伝わり行くその波動は、天井からぶら下がる週刊誌の中刷り広告を揺らし、ひたすらに笑顔の水着お嬢にタイトルを隠された雑誌広告を揺らす。
そして最後には遺憾にも、網棚のくたびれたカバンの間から、朝から冷えたビールを差し出す、揺れない乳のお姉さんの魂を揺らして、車両全体へと広がって行く。
気が付けば、手元にある新聞の下の方、まったく同じ広告がある。
それで『なんてこった』と、落ち込むことはない。それよりも、『それもまた新聞である』と理解した方が、きっと救われることだろう。
だから判る。そんな波動に夢中であれば、きっと眼に映ってはいないのであろうことが。
車内に広がる波動は、窓の外に広がる入道雲とまるで一緒だと言うことを、ここで教えておきたい。
つまり、見飽きた景色の中にも、きっと移り行く季節が感じられるはずだということを。
あなたが『新聞』を感じられた、あの時のように。
私は信じている。誰よりも自分を。
さぁ、『新聞』という夢の世界から目を逸らし、現実を見よう。
水面を揺らす涼し気な風も、ここには届かない。
鳥のさえずりも、ここには届かない。
通信販売の再配達さえ、ここには届かない。
それが『新聞を読む』と、言うことなのだ。
届くのは? そう。冷房フィンから首元に落ちる水滴のみ。
響くのは? そう。『新聞』が奏でる『狂奏曲』だけ。
それだけだ。もう一度言う。そ・れ・だ・け・だ。
目を瞑れば思い出す。
あの騒めき。横揺れ。そして、時々響く長いくしゃみ。
あのクソ暑い103系の夏は、もう帰って来ない。
笑おうじゃないか。それが『新聞』とは、良く言ったものだと。
読み終わった新聞は、網棚ではなくゴミ箱へ。
例えそれが、最後に見た『新聞』の姿で、あったとしても。




