高速貨物列車の旅(二十五)
「そんな。地元の先生達が、黙っていませんよ?」
石井少佐が言う『研究所送り』とは、陸軍の医学に関する秘密研究所を指し、『そこで一生働く』ことを意味する。
と言ってもそれは『研究員』ではなく『研究される方』である。
井学大尉は渋い顔だ。それを見ている石井少佐だって、一応は渋い顔である。
そりゃそうだ。地元の名士たる娘さんを『預かっている』立場でありながら、『人類の為の研究』と称して検体として使ってしまっては、余りにも申し訳ないではないか。
「秘密を守ると、一筆書いてもらっているからな」
サラリと言う。そして足を組んだ。机に左手、背もたれに右肘を掛け、後ろの窓に向かって、得意気に体を反らす。
確かにその通り、ではある。異論はない。井学大尉にも、そんな書類にサインした記憶がある。
しかしだ。その『一筆』が、そこまで重要なこととは、思ってもいなかったのだ。
甘いと言われれば、甘いのかもしれない。きっと『おお甘』なのだろう。
それでも、空を飛べなくなって落ち込んでいる時に、その『一筆』と引き換えに助けてくれた人。
それが目の前にいる『石井少佐』、その人だったのだ。
その後は、事態は急速に好転し始める。
絶対『降格する』と思っていたのに、それもなかったし、陸軍の仲間には『優秀なパイロットを海軍から引き抜いて来た』と、紹介してくれた。
支給されたのは『最新鋭のヘリコプター』で、お宿は戦艦大和。これで、何の文句がありましょう。全く文句がない。ある訳がない。
まぁ、今日の宿は、貨物列車ではあるのだが。
「もう弓原少尉は、亡くなっている訳ですから」
井学大尉にしてみれば、部隊の秘密も大切だが、石井少佐の『地元での評価』も大切なのだ。
石井少佐は急に笑顔になって頷いた。その表情を見た井学大尉は、少しホッとする。
「そうだなぁ。前に『結婚する』と言ってたけど、私には『招待状』が、届いていないのだよ」
不思議そうに首を傾げて話している。
「そうなんですか? お忙しいと思われているのでは?」
なるべく無難な線で擁護してみるが、余り意味はないだろう。
「いやいや『予定を調整して必ず出てあげる』って言ったのになぁ」
思い出すように言いながら、反対側に首を傾げる。右手を顎の所に持って行って、色々考えているようだ。
すると顎から右手を急に離し、『ピッ』と井学大尉を指さした。
「私が紹介してあげたんだよ?」
石井少佐に言わせれば『部下に丸投げ』した仕事の成果も、自分の手柄になるのだろう。
実際、石井少佐は弓原少尉と面識はない。
履歴書の写真くらいは見たかもしれないが、興味は顔写真の方ではなく『病歴』の方だったのは、誰の目にも明らかである。
気が付くと、貨物列車が動き出していた。軽い振動が来て、さっきまで止まっていたのかと理解する。
石井少佐もその振動で、真っ直ぐに伸ばした腕が少しふらついたのであるが、そんなことで驚いたりはしない。
驚いたのは、扉が開いて人が入って来たことだ。
「誰だっ!」
思わず叫ぶ。しかし言われた方は落ち着いている。
「車掌の佐々木です」
困った客人だと思っているのだろう。渋い顔だ。
言われた二人は、そんな車掌の自己紹介を聞いて驚く。
おいおい。国鉄の車掌は、全員『佐々木』なのだろうか?
井学大尉は思う。また変装してきたのだろうと。ネームプレートを変えては駄目だと言ってやりたいのをグッと堪えていた。
石井少佐は眉をひそめて渋い顔になる。流石にさっきの『佐々木』とは、また違う車掌であることは、直ぐに判った。
背丈も顔付も、全然違うのだから。
「ご苦労様です」
石井少佐はそう言って会釈した。
すると車掌の佐々木が、ポケットの方を見て手を入れる。何かを取り出そうとしているようだ。井学大尉は警戒して立ち上がった。
それを見た石井少佐が、笑顔で右手を前に出し、制止する。
「東京からの緊急電報を預かって来ました。
えーっと、すいません。少佐殿はどちらですか?」
笑顔で差し出されたのは、白い封書だった。




