高速貨物列車の旅(十三)
意を決して動き出す。ちょっと湯あたりして、具合が悪い風を装う。下を向いてダルそうに、最初の扉を開けた。
今思い出す名前。そうだ。井学大尉だ。
その井学大尉が、あのとき、売店前とは全然違う目つきで、こちらを凝視する。
まるでこちらが『暗殺者』みたいではないか。
井学大尉の隣、肩口からちらりと見えるのが、彼の上官なのだろう。大尉より上だから、少佐以上は確定。
はい。やヴぇえ人。少佐でしたぁ。
目つき怖ぇ。緊急警報課の参河課長より、断然怖ぇ。
弓原は石井少佐の目に、何故かぐっと吸い寄せられてしまったのだが、意識して下を見る。『珍しい者』を見てしまったが、関係ないとでも、言うように。
慌てない振り。
そうだ。わざわざ挨拶なんて、する必要はない。
知らんぷりをして、通り過ぎれば良いのだ。
何しろ今は、立派な一般人なのだから。
しかしあれが、『何人も殺して来た男の顔』かっ。
「おいっ! お前!」
「はっ、はいっ!」
大きな声に驚いて、弓原は思わず返事をしてしまった。
声のした方に顔を向ける。そこで弓原は混乱した。全く意味が判らない。
何故なら、大きな声を出して怒っているのは、さっきまで優しくしてくれていた、車掌の佐々木さんだったからだ。
「グズグズしてるな! 行くぞ!」
マジで怒っているではないか。こんなに怖い人だったとは。
「すいません。良い湯だったもので」
そう言いながら頭を下げ、佐々木車掌の方へ急ぐ。
弓原は頭まで洗ったのを、後悔していた。いかにもボサボサの髪。これでは、長湯したと思われても仕方ないだろう。
「馬鹿たれが! 五分前集合だって、言ってあっただろうがっ!」
そう言って、左手の腕時計を右手の人差し指でツンツンして怒っている。そしてその右手で、弓原の背中をボンと叩く。
痛い。結構強めだ。息を吸うタイミングだったら、ゲホゲホ言うくらいに。
「すいません」
そう言いながらも、前に押し出される。
冷めた目をした井学大尉の前を通り過ぎ、お茶の缶を持っている石井少佐の前も、トトトと、早足で通り過ぎた。
そこに、佐々木車掌が追い付く。
「ほら、急げ!」
そう言って、もう一度背中を押そうとした時だった。
「待ちなさい」
時間が止まる。佐々木車掌の手も止まった。弓原の足も止まる。
不思議なもので、つまらない冗談を言うのと同じくらいに、時間が止まったと感じるときがある。
それでも、息はしているし、いや、止まっているか。
思考は続けているし、いやいや、止まっている、か。
心臓だって動いているし、いや。それも止まって、いる?
「大丈夫かい? 顔色が悪そうだね?」
急に始まったのは、石井少佐の診療だった。固まっている弓原を見て、佐々木車掌が振り返る。
「あぁ、大丈夫です。こいつ、いっつもこんな感じなんで」
その声を聞いて、弓原は我に返る。
車掌の佐々木さんは、私を守ろうとしてくれている。
そうか。この二人が、さっき言っていた『お仲間』なんだ。
なんてこった。最悪だ!
「診てあげよう。こちらへ」
そう言って、手招きをする。手に持っていたお茶缶を、井学大尉の前に差し出すと、一歩踏み出して体を弓原の方に向けた。
「石井少尉は軍医でもあらせられます。看て頂いた方が、心配ありませんよ?」
そのお茶缶を受け取った井学大尉が、優しく声をかける。
「大丈夫です! 走れる程、元気です!」
弓原は走り出す。
それを見た佐々木車掌も、石井少佐に一礼だけして、慌てて走り始めた。そして、追い掛けながら大きな声を張り上げる。
「指さし確認! 右良し左良し! こらぁっ!」




