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ガリソン(二十一)

 政府は、この巨大な軍事費を縮小するため、改革を断行する。

 国民の中ではインテリ集団であった武士達に、新しい仕事を与えたのだ。それはガリソンの活用方法であった。


 政府は余剰となった武士の多くを海外に派遣し、この未知の油について使い道を研究させたのだ。

 そして、続々と寄せられた情報から、このガリソンには、特別な価値があることに気付く。


 次に政府は、このガリソンを大量に移送するため、硫黄島から本土までのパイプライン建設を目論む。


 試験的に、新橋から横浜までの間に敷設を始めたが、地域の住民の反対に合って、品川付近では沖合い三百メートル付近の海中を通ることになった。

 何れ硫黄島までは長い海底を進むことになる。よってこれは軽い練習とも受け取れた。


 パイプラインは横浜で荷揚げされたガリソンを、新橋まで無事に送り届け、一体には工場が並び始める。

 しかし、その騒がしい音に苦情が殺到し、政府はパイプラインの中継施設があった川崎付近に工場地帯を作ることにした。


 工場からの生産が多くなるにつれ、人々の経済活動は活発になる。

 多くの資材を運ぶ必要性を感じた政府は、民間の活力も得て全国に鉄道網を整備する計画を立てる。

 生糸の生産で富を得た渋沢栄吉は、現在の高崎線に相当する路線に日本初の鉄道を敷設し、現在のD―十五ブロック(旧名・秋葉原)付近に貨物駅を設置。

 そこから積み替えて江戸市内、及び神田川(現神田遊歩道下)・隅田川(現在のE・Fブロック境界を流れる荒川の支流で、今は隅田川大通りとしてのみ名前が残る)を通って海外に出荷された。


 大正十四年。関東大震災により江戸は壊滅的な打撃を受け、浅草や銀座に多くあったレンガ造りの建物はことごとく崩壊してしまう。

 そして、木造住居の多くは炎に包まれ、多くの死者を出した。

 そこで政府は、耐震規制を制定。次に建てる建造物は、これに準じる様に強制する。


 また、増え続ける都市部の人口に対応するため、都市コロニー化を宣言し、江戸を『東京』と改名。新たな都市として再生させることになる。


 元々江戸は、地盤の軟弱な湿地帯を埋め立てた所である。

 そこでボーリング調査を行い、平均して約三十メートル下にある東京礫層地盤に杭を立てることを基本とした。


 当時問題となりつつあった地盤沈下を踏まえ、新たな基準面を標高三十一メートルと制定し、それ以下の場所に住むことを禁止した。

 政府は現在のA―八ブロック(旧名・渋谷)、B―四ブロック(旧名・四ツ谷)B―二ブロック(旧名・茗荷谷)に、百メートル間隔で支柱を建て、新グラウンドを創造する。


 順次拡大された新グラウンドは、昭和二十五年に完成し、旧江戸市中は完全に東京の地下となった。

 この新水準点より下の地区は東京アンダーグラウンドと呼ばれ、その一部は今も地下トレインから垣間見ることが出来る。


 昭和二十五年の映像の次に出てきたのは、今の東京を写した映像だった。そこには青い空が写り、人々がビルの間を楽しそうに歩く風景が映っていた。


 琴美はポカンと口を開けたまま、DVDを眺めていた。

 外の雨が止んだら歴史の試験がある。これを覚えるのか?


 DVDの中で最後の六十年余りは、何の説明もなく簡単に通り過ぎてしまっていたが、琴美は気にしていなかった。


 どうせそこは試験に出ないと、判っていたからだ。

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