深海のスナイパー(五十二)
猿ヶ森砂丘沖十キロ海上。風速三メートル。波静か。
イー407は浮上し、甲板には多くの乗組員が湧き出て、腕を伸ばして深呼吸をしている。
ディーゼルエンジンは好調で、バッテリーに絶賛充電中。燃料は少々漏れてしまったが、バルブを閉めたので、もう漏れ出てはいない。残量も十分だ。
ここで十分美味しい空気を吸ったら、次は食堂で美味しい食事だ。期待しよう。
今は風上に向かって航行中。
だから、開け離れた格納庫の扉から強い風が吹き込んでいる。
何故に風上に向かっているかと言ったら、それは晴嵐を飛ばすためだ。もうすぐ、イー407を救った晴嵐のエンジンが、再びうなりを上げるだろう。
「中島中尉によろしく!」
「はい。少尉もお元気で」
「ありがとう。お世話になりました」
後部座席から、弓原少尉が整備員に依頼したのであるが、どうも整備員による中島中尉への態度が、つれないように感じる。
弓原少尉は戦闘中、何もさせて貰えず本当に『客人』の扱いだった。だから、士官室に籠って震えていただけだ。
それがどうだろう。艦内に歓喜の声が鳴り響いた後、暫くして、中島中尉が戻って来たと思ったら、そのまま寝込んでしまったのだ。
この艦の人達、良い人達だとは思うのだが、もう二度と潜水艦には乗りたくない。それが素直な感想だ。
弓原中尉は周りを見渡す。そしてそっと会釈する。
短い間だったが、お世話になりました。
きっともう、二度と見ることのない風景だろう。振り返れば、奥の壁には『全身ポスター』が、ちゃんと貼られているではないか。
中島中尉から譲渡されたのだが、持ち帰る訳にも行かず、整備員に『一番偉い人』を聞いて、田村少尉に再譲渡したものだ。
うんうん。良かった。良かった。
整備員の皆は、きっと気に入ってくれるに違いないし、中島中尉が何をしたのか知らないが、きっと許してくれるだろう。
もしかして失恋?
あはは。まぁ、それならいつものことだ。心配ない。
その内、元気になるだろう。
「少尉! 行きますよ!」
鈴木少佐の声に、弓原少尉は我に返った。思わず返事をしようとして黙って頷く。
前回カタパルトから射出される際に、鈴木少佐から『舌を噛んだらいけないから黙ってて良い』と言われたのを、思い出したからだ。
だから、ニッコリ笑った鈴木少佐が前を向くと、弓原少尉は身構える。後ろから火薬の破裂音がすると、晴嵐が猛烈な勢いで押し出され、空を舞うのだ。
「イヤッホー!」
鈴木少佐の奇声を聞いて、弓原少尉は思い出す。
それは、彼の『二つ名』だ。
噂には聞いていたのだが、二つ名は『空の鬼神』である。
何とも大層な名、とは思ったのであるが、今の鈴木少佐はその名に相応しく思える。いや、そうに違いない。
グンと上げた高度。あっという間にイー407が小さくなった。
甲板にはまだ大勢の乗組員がいて、名残惜し気に帽子を振っているのが見える。
こちらが手を振っても見えないだろうし、そんな暇もない。それに弓原少尉は、もう一つ思い出していた。
それはとても大切なことで、飛行機に関係することだ。
イー407の甲板では、晴嵐が無事大空に舞い上がったのを見て、大勢の乗組員が『命の恩人』に対し、手を振り千切っていた。
普段は直ぐに撤収作業を開始するのであるが、甲板員まで格納庫の扉も閉めず外に出て、青空に舞う『晴嵐』を眺めている。
何しろ現場責任者の副長まで一緒に手を振っているのだから、問題なんて何もない筈だ。
空の鬼神は、イー407に向かってお礼を言うかのように、翼を振り続けた。
それは実に、右に七百二十度の後、左に千飛んで八十度と、まるで『深々と敬礼』をするかの如くに。
何とも義理堅い『空の鬼神』である。
それはきっと『弓原少尉の分』も、含まれていたのだろう。




