深海のスナイパー(四十九)
艦長はひとしきり笑った後、マイクを使ってもう一度話す。
「鈴木少佐、大変申し訳ないが、空を飛ぶのは『海上に出てから』にして欲しい」
発令所でクスクスと笑う声が聞こえる。
きっと鈴木少佐は、やることがなくて暇にしていたに違いない。そこへ艦長からお呼びがかかったのだ。
物凄く張り切っているのは判る。
『飛ばないので、ありますか?』
少し、がっかりしたような声。艦長は相変わらず笑ったままだ。
「そうだ。今、本艦のバッテリー不足は深刻である。
何とかして充電しなければならないが、
海底二百二十メートルで万策尽きている。
頼りになるのは、晴嵐のエンジンだけだ」
艦長は、艦内の全員に向かって話しかけているようだった。
『了解しました! お任せ下さい!』
再び明るい声が響く。空は飛べないが、コックピットに乗っているだけでも、気分が違うのだろう。
「非常用マニュアルに従い、晴嵐と本艦を繋いでくれ」
艦長は思い出していた。そんなページがあったことを。
無理もない。そんな記載内容が役に立つなんて、夢にも思ってもいなかったのだ。
たかが戦闘機一機分の発電で、潜水艦の充電なんてできるはずがないと、鼻で笑っていた。いや、イー407には三機まで搭載できるのだが、今は一機だけだ。
いずれにしても、技術者には悪いことをしたと思う。
『やり方が判りません!』
鈴木少佐から、明るくも残念な報告が返って来た。それでも艦長の顔から笑顔が消えない。
『私が判ります!』
聞き覚えのある声。格納庫長の田村少尉だ。
そうだ。奴に任せておけば、問題ない。
「田村少尉、よろしく頼む」
『了解しました! 直ぐに接続します』
艦長は頷いてマイクを置いた。そして、また大きな溜息をしたのだが、それはさっきの溜息とは違って明るい溜息だった。
格納庫では、人が忙しく走り始めていた。そんな中にあって、どっしりと構えた男が鈴木少佐に忠告する。
「少佐殿、艦長に変なこと言っちゃ、ダメですよ?」
鈴木少佐と艦長の『会話の間』に割り込んだのは、格納庫長の田村少尉だ。
階級はパイロットの鈴木より下であるが、年齢は随分上だし、軍歴だってずっと長い。
いわゆる『叩き上げの士官』である。
「どうもすいません」
迫力に負けたのか、年上への敬意か、素直に鈴木少佐は謝って頭を掻く。
鈴木少佐にも、艦が今ピンチなのは判っていた。そして自分には、何もできないことも判っていた。
だから魚雷でも何でも積んで飛び出して行ってやろうと、張り切ったのであるが、艦長から任せられた仕事は『晴嵐のエンジンを回す』だけのようだ。
それでも不満はない。
例え海中であっても、コックピットで死ねるならそれは『本望』である。
何しろ空も海も、同じ『青』ではないか。
「晴嵐のプロペラを外せ!」
田村少尉の指示が飛ぶ。それを聞いた鈴木少佐は慌てる。
「プロペラを外すのは、ちょっと」
飛行機のプロペラを外されたら、飛べないではないか。
渋い顔の鈴木少佐を見て、田村少尉も苦笑いだ。気持ちは判らんでもない。
「しかし、風圧がねぇ」
「ちょ、ちょっと、待って下さい! ちょっとだけ!」
片手を田村少尉、もう片方を工具を持った整備員の方に向けながら、鈴木少佐は走り出す。
そして、急いでキャノピーを開けて、晴嵐に乗り込む。
コックピットの中で、以前『これは何だ? 不思議だなぁ』と思ったスイッチを探し出す。
「ニュートラルに、できます!」
鈴木少佐は、コックピットから身を乗り出して叫んだ。
普通、プロペラ機に『ニュートラル』なんてない。飛んでいる最中に、そんなスイッチを触ってしまったら大変だ。
だから隅っこの方にあり、ご丁寧にも蓋付である。
それを聞いた田村少尉は頷いて、整備員に退避を命じる。
代わりに電源ケーブルを持った整備員が、晴嵐に取り付いた。
一刻を争うのだ。電源コンセントに差し込むと、右手を上にあげる。準備完了だ。
鈴木少佐は笑顔で頷いた。
「晴嵐! 行きます!」
いつものようにそう言って、キャノピーを閉じた。
整備員が合図をすると『ブルン!』と音がして、晴嵐が躍動し始める。
格納庫の扉は閉まっている。プロペラも回っていない。
それでも皆、笑顔だった。




