深海のスナイパー(四十四)
艦長が発令所に戻って来た。帰りは手ぶら。
直ぐにマイクを握りしめた。
「右燃料タンクから、まだ漏れているか?」
『はい。まだ漏れています』
「了解」
艦長は頷いた。
「ソーナーは使えるか?」
「はい。問題ありません」
艦長の問いに、ソーナー係が頷いた。艦長も頷く。
「海上の様子はどうだ?」
「大和は遠ざかります。磯風はこちらに来ています」
「判った。ピンは撃っているか?」
「いいえ」
「よし。プラグゼロ発射」
艦長が頷きながら指示を出す。
「プラグゼロ発射了解。発射しました」
殆どの者が、不思議に思っているだろう。何しろ『津軽東』は消灯したままだ。
それなのに蒼鯨との接続を、試みているように見えるのだから。
「プラグゼロ、右舷後方に旋回」
「右舷後方、了解」
「右燃料タンク横へつけろ」
「了解しました。右燃料タンク横へ向かいます」
プラグゼロの操作係が、コントローラを駆使している。体も右に傾けている様は、正に今、右に旋回しているのだろう。
とても判り易いのであるが、意味があるとは思えない。
「機関停止」
「機関停止了解」
静かに聞こえていたモーター音が、徐々に消えて行く。それでも、惰性で動いているのだろう。
それでいて、若干左に傾き始めている。やはり、少なからずダメージがあるようだ。
「今の深度は幾つだ?」
「百七十です」
操舵手が、懸命に姿勢制御を試みている。
「海底までは?」
そう言われて、計器をバンバンと叩く。叩けば直るのは、テレビと一緒なのだろうか。
「二百二十です」
艦長の顔が渋くなる。想定より深かったようだ。
「速度、五ノット」
もう直ぐ周りの海水と同化して、止まるだろう。しかし、海流に乗っているので、地球から見れば動き続けてはいる。
「プラグゼロが、右燃料タンク横に到達」
報告があった。操作担当は、モニターを見たままである。
「よし、ボックス解放」
「ボックス解放、了解」
プラグゼロのボックス解放スイッチを押した。
今頃は、燃料が散る中に『プラグゼロ』のボックスに押し込められた、大量の『トランプ』が、海中で舞っているに違いない。
「プラグゼロは、前方に向けて放棄。スクリューに絡めるなよ」
「プラグゼロ、前方に向けて放棄、了解。スクリューに注意します」
艦長は頷いて、今度はソーナー係に聞く。
「磯風は、来ているか?」
「はい。尚も接近中。1ー5ー0から0ー9ー0へ向かって五ノットで前進中。このままですと、本艦の前方を通過します」
どうやら、こちらの場所を完全には押さえてはいないようだ。
ソーナー係は、スクリューの回転数をカウントして、対象の船がどれくらいの速度で進んでいるのかが判る。大したものだ。
「特別無音潜航」
既に機関は停止している。
艦内には、まだポチョンポチョンと、音をたてる箇所があったのだが、その復旧作業も一時停止。静かになった。
艦がピンチの時に、大声を出す馬鹿はいない。
あ、さっきの魚雷発射管室での大声は、ノーカンで。
「ピン来ました。磯風からです」
予想通りのタイミングだったのか、報告に艦長は笑顔で頷いた。
「深度二百。まだ沈みます」
その報告を聞いて、艦長の顔が渋くなる。
イー407の当初の設計深度は百メートル。それを近代化改修で二百メートルまで伸ばした。
深度の限界値は、乗組員の誰もが知っていることだ。
艦がミシミシ言い始める。今まで聞いたこともない、鉄が軋む音。
「大丈夫だ。そのまま。そのまま」
発令所に溜息が零れて、安堵の空気が流れる。
どうやら『製造元のスペック』より『艦長の言葉』の方を、皆信じているようだ。
その言葉は、艦長自身にも『言い聞かせた』ものだった。




