深海のスナイパー(四十)
『バッテリー容量が、あと一割です』
機関長からの報告だ。
それは困った。今浮上しなければ、沈みっぱなしになってしまうかもしれない。
機械室が一つ浸水している今、バッテリーに頼るしかない。
やはり、海上でもう少し充電しておきたかった。大和からの照明弾使用で、予定より早く潜航したのが痛い。
何なら晴嵐が、もっと遅く帰って来ていれば。
いや、それはみんな結果論だ。今言うのは止そう。今この瞬間を、どう乗り切るか考えるほうが大切だ。
機械室は左と右に一つづつ。互いに水密扉で閉鎖されている。離れた所に、補助機械室。
今、右の機械室は浸水しつつある。左の機械室は無事なのだろうか。報告がない。補助機械室からもだ。
電気系統は壊滅だ。指令所の計器も、幾つか表示されていない。
四系統にある内、右側の系統が使えないようだ。
なにしろ、魚雷の攻撃を受けたのだ。無事であるはずがない。
「酸素の残量が、あと八時間です」
「了解。ご苦労」
報告するための系統が死んでいるようだ。直接報告があった。酸素タンクの近所に被弾したのだろうか。
いや、元々の残量がそれ位だったはず。つまり酸素の量は、影響がない。もちろん、ディーゼルエンジンを全開にしてしまえば、あっという間に無くなってしまうだろう。
しかし、バッテリーの残量が無い今、その少ない酸素を使って、ディーゼルエンジンを起動しないと、艦が沈んでしまう。
魚雷攻撃の直前に、メインタンクをブローして、浮上を指示した。つまり、機関を停止しても艦は浮くはずだ。
しかし今、艦は沈みつつある。
いや、正確には、まだ判らない。
左機械室の動力で微速前進中。海上まであと百七十メートル。
いや、二百メートルと、思っていた方がよいだろう。水深計の回復待ちだ。それでも、右側の水深計は壊れたままだろう。
『格納庫、破損無し、損害軽微』
緊迫感の無い明るい声だ。被弾箇所は右下か。
「けが人は、ないか?」
『いません。たんこぶ位は、怪我の内に入りません!』
「了解。水密閉鎖のまま、指示を待て」
『了解です』
これは吉報だ。
しかし『たんこぶ』だって、怪我に入れて良いんだぞ?
遠慮することはない。
それにしても、格納庫に被弾しなかったのは助かった。
満水になったからと言って、閉鎖するのは簡単だ。推進装置もない。居住区でもない。
しかし、上が重たくなってしまっては、姿勢制御もままならない。制御不能になった瞬間、艦がひっくり返ってしまうだろう。
『居住区・士官室、浸水無し』
『魚雷発射管室、浸水無し。魚雷発射可能です』
「了解」
いやいや、魚雷の出番、もう無いから。多分だけど。
『後方管制官室、浸水無し』
「了解」
あれ? そうすると浸水したのは、右機械室だけ?
艦長は各部署からの報告を受け、考える。そして席を立ち、ソーナー係の所へ歩いて行く。
そのまま後ろから耳元で囁く。
「魚雷は磯風からで、間違いないか?」
艦長がでっかい声で「磯風!」と叫んだのは、指令所の全員が聞いている。
それでも、今、この現状を考えると、謎だらけだ。
「はい。わが軍の魚雷音でした」
「どこで、爆破した?」
「本艦の右後方、距離百以内としか」
「本艦の魚雷が、当たったのか?」
「いいえ。向こうの魚雷に巻き込まれて、爆発しています」
「判った。ありがとう」
ポンポンとソーナー係の肩を叩いて、艦長は自席に戻った。そして、右手を顎に付け、更に考える。
そして、ポツリと呟いた。
「あれを使うか」




