ガリソン(十五)
休みなのに、何だか楽しくない。『これでも見るか』と、手にしたのは、昨日から机上に放置の『日本の歴史DVD』である。
平日の朝から、面白い番組なんてやっていないだろう。
『バタン!』
勢い良く廊下の窓を閉める音。父に違いない。琴美は身構えた。
足音は階下ではなく、こちらに向かって来る。父が琴美の部屋に来ることなんて、滅多にない。何だろう。『小言』か『大言』か。そんなことを考えている間に、部屋をノックする音がした。
「どうぞ」
琴美が返事をすると、入って来たのはやはり父だった。
「琴美、ちょっと良いかな」
琴美は頷いて父にイスを譲ると、ベッドに腰掛けた。父は右足を大きく上げると、イスの背もたれをわざわざ超えて腰掛ける。
「お前、昨日『ヘリコプター』に轢かれそうになったんだってな」
「うん」
ちょっと違う。ヘリコプターではなく、タンクローリーだ。
でも『轢かれそうになった』のは合っている。
「お父さんは、死ぬほどびっくりしたぞ」
「私は死んだかと思ったよ」
琴美は笑いながら答えた。父は娘の顔を見て、愛想笑いだ。
「お父さんは琴美に死んで欲しくないし」「うん」
「いつまでも元気で居て欲しい」「うんうん」
子供に『死んで欲しい』と言う親は、まずいないだろう。
「お前達に『元気に育って欲しい』と思って、この家を買ったんだ」
「うん」
琴美は覚えている。小学生に上がる時、ボロマンションからこの家に引っ越してきたのだ。
その時の父の笑顔ったら、琴美の何倍も喜んでいた。懐かしい。琴美が喜んで走り回れば、それだけで父は笑顔になったものだ。
「梅雨の時期は嫌か?」「まぁ、そうでもないけど」
琴美はもごもごと答えて黙った。父は溜息を吐いて話を続ける。
「お父さんもな、梅雨の時期は『我慢』だと、思っているんだ」
琴美は黙って頷いた。はいはい。そうですね。そうですよね。
「でも、お前がマンションの方が良いって言うなら、この家を売って、また引越ししても、良いんだよ?」
琴美は驚いた。寂しい顔をして、父は何を言い出しているんだ?
ガレージの乗用車、庭の花壇、リビングのピアノやステレオ。ボロマンションでは、手に入らないものばかりだった。
それを一番喜んでいたのは、父よ、あなただった筈なのに。
琴美は何度も首を横に振る。
駄目だよそれは。ここは『実家』なんだ。判ってるの?
しかし目の前の父は、それを見ても寂しそうに話を続ける。
「いや、母さんと話もしたんだ。琴美が大学に行くようになったら、駅前のマンションに引っ越した方が良いかなって。その方が屋根もあるだろう?」
琴美は慌てて手を横に振った。またまた、何を言っているのだ。
まだ大学に受かった訳でもないのに、そんなことを決めても仕方ないだろう?
「いや、大学は寮かもだし、アパート一人暮らしかもだし」
すると父は両手で頭を抱えると、勢い良くうな垂れた。
「やっぱりマンションの方が良いのか……」
ちょっとぉ! 話聞いていましたかぁ! の心境だ。
「いや、そうじゃなくて、私はこの家が好きだよ?」
その声を聞いて父は顔を上げた。しかし、しょぼくれたままだ。
「そんな、駅前のワンルームを大学生が借りられる訳ないだろう?」
「そんなことないよぉ」
すると父は『何も判ってないな』という感じで、首を横に振る。
「駅前のワンルームが幾らすると思ってるんだ?」
「この辺だと五、六万かな」
駅前の不動産屋に貼ってある案内を、真理と見たことがある。
「そんな訳ないだろう」
あれ? 違ったようだ。
「幾らするの?」
最近は値上がりしたのかしら。
「二十万だよ。二十万」「え? 本当?」
聞き返しても父は答えようともしない。これは、多分父が正しい。
「えー、じゃぁ都内のボロアパートとかは?」
琴美は考える。鍵さえちゃんと掛かれば、贅沢は言わない。
「お前、都内の大学が希望なのか?」
質問をする声がでかい。それにまた『お前』呼ばわりだ。
何か『とてつもないこと』を希望したかのようだ。別に『満願会席を昼から食べたい』と言った訳ではないのに。
「実力が合えば」
希望校は言い辛い。琴美は頭を掻いた。それを見て父は、少し笑った。しかし目が心配そうなままだった。
「都内は、たっかいからなぁ」「そうなんだ」
父は答えない。娘の期待に答えられない『ダメな父親』とでも思っているのだろうか。そんなことはない。
「まぁ、お前が都内の大学に行きたいと言うのなら、お父さんもお母さんも頑張るよ。この家も売って、地方で暮らすのも良いし、そうだなぁ、優輝は中学までで、我慢してもらうよ」
「え?」
父は立ち上がった。琴美は理解が追い付いていない。
「都、都内じゃなくても良いよ!」
慌てて琴美は叫ぶ。どうなってるのこれ? と、考えながら。
父は、娘が気を使ってくれたのが嬉しかったのか、少しだけ笑った。そして、肩を落して出て行った。
琴美は自分の置かれた状況がよく判らなかった。いつの間にか立ち上がっているのだけは判った。
この家を売る? 信じられない。
売って何処に行くの?
この家が好きだし、この街も好きだ。
友達だって沢山居る。
進路次第で全て失うなんて。
そんなの、納得出来ないよ。