陸軍東部第三十三部隊(二十五)
富沢部長と山崎にド突かれながら、宮園課長が歩く。
女性に対し『御年』の指摘は、『甘味』の次に恨みを買う。誰しも、きっと経験があるだろう。
あの日あの時あの瞬間、あの人にしてしまった、あんなことや、こんなこと。思い出しても恥ずかしい、あんなことや、こんなこと。
そう言えば、と、無理矢理思い出す、あんなことや、え、そ、そんな、ことぉ?
二人から、何度もド突かれて、ペコペコ頭を下げながらも、宮園課長はニヤついている。
彼はどうやら、『M』らしい。『宮園』だけに。
静かになった薄荷乃部屋。琴坂課長は、手順書に全てを記入し終わって、後片付けをしていた。
ふと顔を上げると、高田部長が手招きをして呼んでいる。珍しい。
琴坂課長は早々に自席を引き揚げて、今日も無口だった、本部本部長の席へ向かった。
「お待たせしました」
と言っても、待ち時間は十秒だろう。油断はできないが。
本部本部長の感覚で十秒は、まるで百億ナノ秒。途方もない時間だ。タイムイズマニー。
つまり、彼にしてみれば、動かすお金も億単位ならば、時間感覚も億単位ナノだ。
「遅い!」
やはり『お怒り』だった。最高責任者が発した最初の言葉が『遅い』。それが、死を表しているか、言わなくても判るだろう。
盤上の『チェス対戦』を見ていた顔を上げて、その鋭い目を向けたのは、高田部長の方だった。
高田部長は困って、琴坂課長を見る。都合の良い時だけ、助けを求められても困る。
琴坂課長は、チェスの戦略なんて判らない。
将棋なら少々。
「判るか?」
「判りません」
「いや、お前、それじゃ困るだろう?」
「既に困っています」
出た。高田部長の無理筋押し問答。
それでも、権力と、権威と、妻の笑顔と、娘の嘘泣きと、高田部長の全てに弱い琴坂課長は、おろおろするばかりである。
「じゃぁ、直ぐに直さないと」
「すいません。質問が判りません」
「ちゃんと説明したのか?」
技術最高顧問の声がして、静寂が訪れた。
小さくなっているのは、高田部長である。
本部本部長は、部下の部下を叱らない。
だから高田部長は、困った顔で『揉み手』と『汗を拭く』動作を、何度も繰り返している。
口はモゴモゴしているが、どうやら音声機能の調子が、悪くなってしまったようだ。
「ちゃんと、日本語で説明したのか?」
「そーなんですよ!」
あっ、音声機能が急に直った!
「こいつ、コンピュータ言語は、ニ十種類以上取り扱えるのに、
人間の言葉は、日本語しか、取り扱えないんですよぉ!」
そう言って高田部長は、平行に揃えた両手を、交互に動かしながら、笑顔で琴坂課長を指さす。
そんな笑顔で見つめられても、琴坂課長だって困る。
「なんか、あの時は、すいませんでした?」
素直に頭を下げる。多分、琴坂課長は、外資系の会社では、出世できないだろう。
最古参電算機は、琴坂課長に、そっと聞く。
「琴坂課長、機械語は、読めるようになったのか?」
「いいえ」
渋い顔をして、即答である。そんなの読めたら、人間じゃない。
「だめだよ。早く、こっちの世界に来い?」
嫌です。私はまだ人間の世界に居たいです。
「X86系なら、何とか」
最近は色々拡張されているから、最新のは知りません。
「そんなおもちゃは良いから。なぁ?」
あ、すいません。ですよね。家のチップじゃないですもんね。
「はい。頑張ります?」
再び琴坂課長は頭を下げる。もう、それしかない。
「そうだぞ? 頑張らないとダメだぞ?」
高田部長はポンポンと、琴坂課長の肩を叩く。
まるで、お前も早く『こっちの世界へ来い』と言っているようだ。
「お前は、アセンブラしかできないだろう!」
一喝されて、高田部長は首を傾げて頭を掻く。
「えぇっ。回路図も、読めますよぉ」
すると中央演算装置開発者は、ニヤリと笑うだけで、何も、言わなかった。




