海底パイプライン(百九十七)
「若頭ぁ、あちらさん『ご存じ』みたいですけど……」「何を?」
真顔で手をクイックイッと指し示している。若頭は振り返った。
見れば石井中佐が二本指を出したまま呆れているではないか。
「収入印紙なら二千円な」「えっ?」「はぁ……。呆れるわぁ……」
さっさと指を降ろして膝の上に。残るは溜息ばかりかな。膝を『パチン』と鳴らしてから、おもむろに話始める。
「だとしてもだ。『この取引』は、そんなモンが必要なのかねぇ?」
若頭にしては意図が見えない。しかし少なくとも軍は『契約書を取り交わす意思』も無ければ、『念書の一枚』もしたためる意思もないのだろう。当然『領収書』など、用意する必要も無いと。
なんだ。その方が『いつもの取引』と同じではないか。
「いやぁ。お宅の出方を聞きたかっただけだ。『本気なのか』をな」
石井中佐はあんまり聞いていない。『ハイハイハイ』と頷くのみ。
「じゃぁ早く人質を返してくれ。金の話はその後だ。これは譲れん」
話が進まなくて、じれったいのだろう。手をヒラヒラさせて『人質交換人質交換』と強く訴えている。しかし若頭も負けてはいない。
「人質は返す。しかし家も被害が甚大でなぁ。金の話が絶対に先だ」
こちらはグッと睨み付けるだけでヒラヒラは無し。寧ろ姿勢を低くして下から上にグイッと顔を寄せる。少し斜めにして頷きながら。
石井中佐は脅しに屈しない。顔を顰めて上体を少し後ろに反らしたのは、『息が臭ぇんだよ』を訴えるためか。ほら。鼻を摘まんだ。
カチンと来た若頭は更に近付くが、それを石井中佐は『腕時計を見る仕草』で防ぐ。見れば結構『良い時計』をしているではないか。
「何だ。その時計も付けてくれるのか? 寄越せ」「触るなっ!」
一喝して弾かれた。別に『俺の方が良い時計してるもんね。ホラ。右にも左にもぉ。どうだぁ。お前のなんか要らねぇよ。バーカバーカ』と張り合ってみるが、石井中佐は見向きもしない。
何せ今気にしているのは『時計の値段』ではなく『時刻』なのだから。いや至極当然のことだった。袖口を揃えると前を向く。
両手を太ももの上に置き、スッと姿勢を伸ばす。顎を引いた。
「このまま人質を返さないと言うのであれば、我々にも用意がある」
堂々とした宣言である。しかし若頭は鼻で笑った。一体何が出来ると言うのだ。さっき周りの状況を説明しただろうに。
もう一度辺りを見回して『お使い男』を探す。居た。目が合う。
「おい。『ちゃんと狙ってろ』って、言って来たんだろうな?」
「へい。『若頭は狙っちゃダメ』って言って来ました」「良しっ! なぁ? 何を用意してきたのか知らないが、変な動きしてみろぉ? 『ズドン』と食らってお陀仏だぁ。判ってんのかゴラァッッ!」
もう一度大声で蹴散らす。今度は臭い息だけでなく、多分唾も掛かっただろう。しかし石井中佐の表情は変わらない。姿勢もだ。
さっきと違うのは『既に切れているから』なのか、掛ったであろう唾でさえも放置して、グッと睨み続けるのみ。いや、動いた。
「あと五分だな」「何がだっ!」「……」「おいっ!」
石井中佐は若頭の乱暴な問いには答えない。ただ蔑むように睨み付けるのみ。見れば微動だにしていなかった無線係が、いつの間にか『無線マイク』を手にしているではないか。若頭はピンと来る。
「何か呼ぶのかっ! 残念だなぁ。照準を無線係にしちまうぜぇ?」




