海底パイプライン(百九十六)
「奴に『何処狙ってんだ』って、言って来いっ!」「へいっ!」
ご指名の黒服が一人で駆け出した。何か『また俺ぇ?』な感じを醸し出していたが、名前も紹介されていないし、別に誰でも良い。
スナイパーを『奴』と呼称したのは、軍に名前がバレぬようにするための『配慮』なのか、それとも単に名前が『奴』なのか。
少なくとも石井中佐と無線係の目は鋭い。何せ『金で軍に敵対する奴』が視線の先に居るのだ。頭の中にある『スナイパー名鑑』の頁を捲りながら、『奴・奴・奴……』と今も照合中だ。
「兎に角だなぁ、あんた等はなぁ、とっととこちらの言う通りの額をだなぁ」「払おう」「払って貰わないとぉって、あぁ何だって?」
石井中佐は強烈な一撃をぶち込んでいた。スナイパーの存在を明らかにしたことで、明らかに調子に乗っていた若頭に。すると直撃弾を食らった若頭は、逆に驚いて聞き返してしまっているではないか。石井中佐にしてみれば、その様子はちゃんちゃら可笑しい。
「こっちは『払う』と言ったんだ。呼び出しといて要らんのかね?」
嫌みったらしく、前に出した右手を下に向けプラプラさせている。
若頭はズッコケてしまった体制を元に戻し、『コホン』と咳払いさせてから真顔を作り直す。ちょっと『遅い感じ』もするが。
「要るに決まってんだろ。そうだ。素直に払うと言えば良いんだ」
こっちの方が『立場が上』とばかりに偉ぶって見せる。これで組長が帰ってくる前に一件落着だ。良かった良かった。
しかしふと思う。軍との『口約束』を信じる程こちとらお人好しではないと。そうだ『契約』せねば。でなければ安心など出来ぬ。
「大将、いや中佐さんよぉ『用意した物』はあるよなぁ?」
ハンコを『バンッ!』と押す仕草をしての説明だ。若頭は事前に税理士の先生から、『契約書に実印は必須』と念を押されていた。
あと契約には、金額に応じた『収入印紙』の用意も必要だとか。
税理士の先生曰く『金を持って来れば物はコッチで用意してやる』とのこと。流石先生。助かる。勿論『その分も貰え』と、これまた有難いお墨付きまで。『相手も当然うんと言う』そうだ。
しかし『当然だ』と頷いたはずの若頭は、肝心の『収入印紙たるものが何なのか』を知らない。完全に『未知の世界』であった。
故に酒を注ぎながら、それとなく『幾ら貰えば良い?』と聞けば、税理士の先生は優しい。そっと『指を二本』出したではないか。
「契約金額とは別に『二百万掛かる』が、それは当然『軍で負担して貰う』からなっ! びた一文負けねぇ。キッチリ用意しろぉ?」
気持ちの中で『ざまぁ』の思いが過ぎる。若頭にしてみても『契約するだけで二百万も掛かる』だなんて、『国は何て阿漕なんだ』と思う。『盃だけで契約する』方が絶対に健全だ。
まぁ、それだけ世の中『腐った奴』が、蔓延っているのだろう。
「ある訳ないだろ。『人質の交換』に、ハンコなんて使わんよ? それに何だね? 『契約の他に二百万』てのは?」「はぁあぁ?」
若頭は驚く。思わず石井中佐の上から下までをじっくり観察してしまった。軍幹部にも『収入印紙について知らない奴』がいるとは思わなんだ。しかも『医者』なら、きっと頭も良いだろうに。
「何だ中佐は『収入印紙』も知らないのかぁ?」「なら二千円だろ」
若頭は聞いちゃいない。石井中佐が差し出した『二本』も見てはいなかった。振り向いて『税理士先生との酒の席』に同席していた男達を探していたからだ。目が合った男が、指をそっと差し出す。




