海底パイプライン(百八十)
「うわ先生ぇ、ちょっと汚いっすよぉ。いきなりどうしたんすかぁ」
少しばかりの唾が、辰也の方にも飛んで来ていた。渋い顔だ。
しかし九十九の方に反省の色は無し。まだ涎を拭きながら笑っている。この勢いでおならでもしようものなら、天井まで飛んでいた。
「いやごめんごめん。ちょっと面白い奴だった記憶しか無くてなぁ」
手をパタパタと振って誤魔化すが、別に飛ぶ訳ではない。
まだ唾を気にしている辰也に『拭いてやるよ』と袖を近付けるが、それは当然『結構です』と弾かれる。
「もぉ良いですからぁ。何があったか教えて下さいよ」
「隆坊ちゃんのこと?」「誰です? それ」「石井隆。フルネーム」
「あぁ。フルネームは聞いて無かったです」「何だ。聞いて来いよ」
笑顔で突っ込まれてしまった。仕方なく『四平を使いにやろうか』と思って振り返ったが、案の定『ゲーム中』である。
「戻ったら確認します。石井隆ですね」「そうそう。石井隆ちゃん」
井学大尉を監禁している下方を指さして答えると、九十九も頷く。
「ふざけた奴だったんですかぁ?」「て言うかさぁ……」
そこで九十九は考え込んでしまった。どうやら『ネタ』が有り過ぎて、『何から話すか』思案に暮れているようだ。
辰也は急かすことも出来ず、大人しく待っている他はない。
「最初はスゲェ大人しい奴だったんだよ。兎に角引っ込み思案でな」
「先生はそいつと結構親しかったんですか?」「いや、それは無い」
直ぐに否定されて辰也は不思議に思う。理由は直ぐに判った。
「向こうは部隊長の関係者で、俺はその他大勢の一人だからさぁ」
「それじゃぁ、話したことは無いんですか?」「いや有るけど」
「じゃぁ面識が?」「どうかなぁ。部隊員なんて何千人も居たし」
「そんなに居たんですか!」「俺みたいな『使いっパ』も入れてな」
「あぁ」「だから『話す』って言うより『報告した』って感じか?」
辰也は納得して頷く。つまり隆坊ちゃんは『エリートコース』を歩んでいて『有名人だった』と言う訳か。
そして今は『部隊長』にまで昇り詰めたと。なるほど。
「着任の挨拶でスゲェ緊張しててよぉ。『コイツ大丈夫かぁ?』とか『何で来たんだ?』って皆スゲェ言ってたんだけどさぁ」「へぇ」
「後で出身聞いたら部隊長と一緒でよぉ。それで『部隊長の関係者だ』って判ったんだよ」「出身が何か関係あるんすか?」「有る有る。部隊長はさぁ、側近を同郷で固めてたんだよ」「変わった趣味ですねぇ。何でですか?」「知る訳ねぇだろぉ。俺だって『隣町出身』ってことで、採用になっただけなんだしさぁ」「へぇえぇ」
ということは部隊長の息子か親戚か。そんな所だろう。
「その隆坊ちゃんはよぉ。飛行機が苦手でなぁ? 軍の輸送機に乗るのスッゲェ嫌がってさぁ。『僕は乗りましぇんっ!』て大騒ぎよ」
当時を再現してか、酷い顔で絶叫する九十九に辰也は苦笑いだ。
しかし本人の名誉のために『当時のセリフ』を正しく記載しておくと、『ぼっぼっ僕は飛行機には乗りますぇん』だ。
セリフを噛んだ上に、乗るのか乗らないのかも不明であった。九十九は補正されて伝わって来た噂を聞いたに過ぎない。
「そんなんで、軍人が務まるんですかぁ?」「それが務まるんだよ」
九十九の顔がパッと変わった。その顔を見ただけで本当と判る。
「連れて行かれたのが『函館』でなぁ? そこで結構な修羅場を潜って来たみたいでさぁ」「へぇえぇ戦争って人を変えるんですねぇ」




