海底パイプライン(百七十八)
九十九は振り返り親指で自分を指し示す。二度連続で。
そんなに強調して言うことだろうか。この無免許医が。もし患者が聞いていたら、びっくりしてしまうではないか。辰也は慌てる。
「先生ぇ、それはナイショにしておきましょうよぉ」「良いんだよ別に。大体もう噂になってんだろぉ?」「だとは思いますけどぉ」
九十九には医師免許も世間体も無いのか。そんなことより今は『焼き肉のタレだ』と言わんばかり。辰也は眉を顰めて冷蔵庫の扉を開けると、見覚えのある瓶を見つけて取り出す。
「あっ。これって、俺が使ってんのと一緒だ」「それ旨いよなぁ」
不意に『今度から違うのにしよう』と思うから人間は不思議だ。
もしかしてこのタレを使い続けていると、『九十九のようになってしまうのではないか』と、思ったからだ。知らんけど。
「はい先生。タレです。これで良いんですよね?」
ホイと差し出した焼肉のタレを見た途端、九十九は顔を顰める。
何だ『賞味期限切れてんのか?』と思って、辰也は裏を見た。
「おいおいぃ。皿に出して来いよぉ」「皿にですかぁ?」「たりめぇだろぉ。辰坊は若頭が『タレ持って来い』って言ったら、そうすんかぁ?」「あぁ、すいません」「まったくぅ。気が利かねぇなぁ」
言われて納得がいくような、いかないような。複雑な心境だ。
「皿ぁ皿ぁ。おい四平ぇ、お前もぼへっとしてないで探せ」「えぇ」
四平は至極不満そうだ。別にぼへっとなんてしていない。知らんぷりしてゲームをしていたのに。割と真剣に。仕方なく『探す振りでもするか』と歩き始めると、そこへ九十九の叱責が飛んで来る。
「その辺に『ステンのプレート』とかあんだろっ! 何だって良いんだよぉ。テメェだって食いたきゃぁ、早くしろってんだよっ!」
「へぇい。先生ぇ、こんなんで良いですかねぇ?」「あぁそれそれ」
辰也は我慢だ。ここでもし九十九を怒らせて『病院閉鎖』にでもなってしまったら大問題だ。他の組にまで怒られてしまう。
が、もし質問の答えが『知らねぇ』だったら。『どうするか』は考え中。取り敢えず変に曲がった『銀色の皿』に焼肉のタレを注ぐ。
「はい先生。どうぞ」「ホレ。一番真ん中の方だ。食え食え」
九十九が振り返ったのと同時に、レバ刺しの二切れがプレートに投入される。何か『色』といい『シチュエーション』といい、どう見ても『手術中』に見えてしまうのは木の精、山の精、谷の精。
九十九は一切れをメスでぶっ刺して、そいつをペロリと食う。
「うっめぇなぁっ! ほらっ、辰坊もぼへっとしてないで食えっ!」
立ち所に機嫌が直ったようだ。ニコニコ顔で勧められてしまっては、辰也も食べざるを得ない。手掴みで。そういうのは慣れっこだ。
「頂きます」「もっと食うかぁ♪ あんちゃんも食うだろぉ?」
四平のことだ。他には誰もいない。しかし四平はゲーム中である。
「ほら四平、お前も頂けっ!」「あっ俺、レバー食えないんでぇ」
サラッと断る勇気。誰も見習いはしないだろう。辰也は九十九より先に四平に殺意を覚えるが、断られた九十九は別に怒ってはいないようだ。追加したレバ刺しをプレートで掻き回しながら聞く。
「何だアレルギーかぁ?」「そうなんすよぉ」「旨いのに可哀想ぉ」
医者らしくサラッと流して終わりだ。いや、医者ではなかったか。




