海底パイプライン(百七十七)
「えぇえぇっ! 人の肝臓をですかぁ? それはやべぇっすよ」
辰也は思いっきり手を横に振って拒否。顔もいつになく真顔だ。
「ボケッ! んな訳あるかっ! 牛さんに決まっているだろうがぁ」
こちらもいつになく結論が早い。普段なら診察後に病名を聞いても『んなぁ直ぐに判るかボケッ』と答えるだけ。結果は後日なのに。
「いやぁ、そうは思いましたけどぉ、先生ならあるかなぁっと……」
首をカクカクと横に振りながら苦笑いで答える。冗談ですって。
「ねぇよ。俺を何だと思ってるんだっ!」「すいませんすいません」
ダメだった。実際辰也は『本気』だと思っていたのが、九十九にはバレてしまった感あり。九十九が手に持ったメスを、スッと辰也の方に指し向けたではないか。
「もう『助けてぇ』なんて来たって、診てやらねぇぞっ!」
辰也はメスを無事避けたが、それは目の前で勢い良く上下に揺さぶられている。頭に血が昇ったのか、危ないのなんのって。
「いやいやそれは。凄く良い先生だって思ってますからぁ」
流石に今『凄く変わってますけど』とは付けられない。そんなことを付け加えたら、体の何処かに傷が追加されてしまう。
言ってる傍から九十九は、メスをクルンと回して持ち直す。
「幾ら俺に『倫理観』が無くったって、人の肝臓まで『取って食おうと』は思わねぇぞぉ?」「ですよねぇ」
回るメスを眺めながら、ここはニッコリ笑って『揉み手』だ。辰也は九十九に『大切な質問』があって来たのを忘れてはいない。
「あったりめぇだっ!」「いやぁ、全くおっしゃる通りでぇ」
そこまで胡麻を擂って、やっと怒りが収まったか。フンと鼻息。
メスを今度は掌でクルクルと回したあと、五指で握りしめる。
「まぁ『痛めつける』のなら全然やるけどなぁ。ヒヒッ」『ザクッ』
ニヤッと笑ったかと思ったら、レバーの塊にメスを突き立てた。
もしかして、普段からそんなことをしているのだろうか。現場を目撃してしまった辰也は、思わず聞かざるを得ない。
「あのぉそれはぁ、牛ですかぁ? それとも人間ですかぁ?」
すると九十九が振り返った。笑顔のままだ。ゴム手袋を外しながら歩き、辰也を意味深に見つめる。その目は『そんなの判ってるだろうがぁ』であるのが怖い。行先は壁際の医療機器の棚だ。
「牛の方は『肉屋に任せてる』からよぉ。バットをバット出す」
やはり口にするまでもなく、九十九は『人間専門』のようだ。
ゴム手袋を外したのは、棚からステンレスのバットを取り出すのに、血が付かないようにするためか。
手術なら予め準備もしておくのだろうが、レバ刺しを調理する手順は言葉通り手慣れていないようだ。レバーの塊の横に『カラァン』と空のバットを置くと、再びゴム手袋をはめる。ギュッギュッ。
「あぁ良かったですぅ。所で先生ぇ、ちょっと質問がありましてぇ」
「そこの冷蔵庫から焼肉のタレを出してくれ。一番上な」「えぇ?」
振り返らずに九十九が指さしたのは、明らかに『医療用冷蔵庫』である。辰也は触ったことも無いし、素人が開けて良いかも判らぬ。
「焼肉のタレだっ! 見たことねぇのかよっ! あんだろぉおぉ?」
「いや先生ぇ、診察室の冷蔵庫に、そんなの入ってるんですかぁ?」
「入ってちゃダメなのかっ!」「いやぁ、ダメって、言うかぁ……」
「じゃぁ『医療法』の第何条で禁止されてんだっ! えぇえぇっ?」
「そんなこと言われても俺ぇ、医者じゃねぇしぃ」「俺もだよっ!」




