海底パイプライン(百七十五)
辰也と四平は吉原ビルの病院へとやって来た。名前はまだ無い。
いや、少なくとも吉原ビルの住人が、単に『病院』と呼んでいるだけで、本当は有るのかもしれないが。気が向いたら思い出そう。
しかし『この匂い』は嫌いだ。病院だから『薬の臭い』がするのは仕方ないとして、病院なのに『かび臭い』のは頂けない。
節電なのか貧乏なのか廊下は暗く、空気も淀んでいる。だから少な目に見積もって、『三割増し』に感じる次第だ。
「ここは相変わらず、時化た病院ですねぇ。何か臭ぇし」
四平は肩を竦めて辺りを見回している。自分の部屋だって『似たようなもん』だろうに。人のことは棚に上げて。
「無いよリはマシだ。病院は見栄えじゃねぇんだよ。ココだよココ」
辰也は苦笑いだ。大火傷で入院し、無事に退院出来た経験から言わせて貰えば、この病院はどんな病院よりも素晴らしい。
「それに受付のねーちゃんも、スゲェブスな上にスゲェ不愛想だし」
ちらっと振り返って見えた四平の顔は『心からそう思う』を表していた。まぁそれは『声の調子』からしても、明らかなのだが。
四平は思ったことを躊躇なく口にする。悪い癖だ。
そういうのは、少なくとも大きな声で言わない方が良い。
「無いよりはマシだ。女は見栄えじゃねぇんだよ。ココだよココ」
指で強く指し示す。しかし四平を決して否定するつもりはない。
辰也も四平につられて振り返ったが、確かに『今日の受付嬢』はハズレである。良く言って限りなくハズレに近い大ハズレだ。
こちらを『キッ』と睨んでいる受付嬢と目が合う。おお怖っ。
しかしあれだ。『あの巨乳』なら、何処で出しても『一定の需要』は望める。それに顔だって化粧をすれば何とか。性格は……。金で。
「まぁ、そうですけど。俺はココの世話にだけはなりたくねぇです」
まだ言うか。辰也は逃げるように前を向き、肩を竦める。
四平の言う通り、辰也も『自分が入院する前』はそう思っていた。しかし今は違う。もしちょっとでも調子が悪くなったら、直ぐ世話になりたいとさえ思う。きっと何とかしてくれる。
残念なのは病院が『ビルの何処に有るのか判らない』ことだ。
何しろこの病院には、窓が一つも無いのだから。
「良いんだよ。治ったモン勝よぉ」「そぉすかぁ?」「そうだよ」
辰也は思い出す。どうせ入院患者はうんうん唸ってばかりで、窓の外なんて眺めているような『お気楽な奴』は居ない。どちらかと言えば『誰かに追われている奴』ばかり。窓なんて無用だ。
百害あって一利なし。もし困るとしたら逃げられないことだけ。しかしそれも憂いに過ぎない。どうせ入院中は動きが鈍くなるし。
その昔、吉原遊郭上に人工地盤を建設した際、地区全体をすっぽりと覆う巨大なビルが建てられた。まぁここは『雨に濡れたら溶けちゃう世界』なのだ。街全体をビルの中にすることを、反対する輩もいなかったのだろう。お陰で窓があるのは壁側だけである。
ちなみに『吉原ビルの場所代』だが、人工地盤上は窓側が一番高く、アンダーグラウンドは壁際が一番安い。
「兄貴ぃ。こっちですかね」「うーん。この辺は見覚えがあるなぁ」
実は病院内も判り辛い。まるで迷路だ。これでは受付嬢が教えてくれた『あっち』だけでは、何ともならぬではないか。
お陰で『九十九の診察室』を探すのにも、苦労しそうである。




