海底パイプライン(百七十四)
若頭が向きになるのも判らんではない。留守を守っている最中に、組の稼ぎ頭、正に『大黒柱』が焼け落ちたのだ。洒落にもならん。
京極組みたいにちっさい組は、やり繰りが大変である。普段から金にならないような『吉原の雑務』をこなし、吉原に貢献しないと征剣会の中では認められない。より多くの茶屋を傘下に収めるなんてことも、ままならないのだ。
「組が大変な時期だって言うのは、お前だって判ってんだろっ!」
若頭は頭の中で色々計算中だった。損害賠償金額は建物価格だけに留まらない。営業機会損失だってキッチリ頂くつもりだ。
それを虎雄に邪魔されてイラついたのもある。声は大きくなってしまったが、反省なんてしていない。
虎雄は名前に似合わず小さくなってしまった。偽名なのもあるが。
「それは勿論です」「じゃぁ、今月の上がりは幾らだぁ?」
本当の名前は『小林正夫』である。あんまり強そうじゃないので『虎雄』の名を頂いたが、それで性格までは変わらない。
「……ボチボチ。先月と同じ位でぇ」「それじゃダメなんだよっ!」
気の弱さを前面に出して苦笑いだ。若頭はイライラが最高潮に達したのか、唾も飛ばしながら叱責を飛ばす。実に気が荒い感じ。
しかし若頭も本名は『小波優和』と、印象は中々に正反対だ。
「もっとボンッ! と売り上げ伸ばしてだなぁ」「へい」
調子良く右手をぶち上げて『売上』を示すと、虎雄も直ぐに頷く。
すると若頭も『判れば良い』とニッコリ笑った。売り上げが落ち込むのは確実だが、虎雄なら何とかするだろうと思っている。
「渚ちゃんの顔を立てないと、あかんだろうがぁ。なぁあぁ?」
急に砕けた感じになって笑い出した。虎雄の顔を下から覗き込む。
いきなり『ちゃん付け』で。しかも女の子みたいな名前が飛び出して『誰やねん』な雰囲気となるかと思いきや。虎雄はおろか、同じ部屋に居合わせた全員が『誰』のことか判っている様子だ。
「へい。それはもう重々承知の助で。渚ちゃんの為ならです」
その中で真面目な虎雄だけは笑っていない。やはり『ちゃん付け』ではあるものの、口調は丁寧でお辞儀も深い。
実は組長の京極龍鳳にしたって偽名なのだ。本名は『木村渚』で、一文字も掠っていない所が笑える。いや笑ってはいけない。
本名で呼ばれた途端、組長はその場でブチ切れること確実だ。
「ワカリャ良いんだよ。ワカリャぁ」「へい」
若頭は再び報告書に目を落とした。辰の奴、普段は馬鹿っぽい癖に、数字だけは細かく正確に出して来やがる。字も細けぇ。ちっと老眼が入って来たのか、読む方の身にもなってみろと言いたい。
「ダメだ。弁護士先生の所に行くか。被害総額、出して貰おう」
苦笑いで報告書をテーブルの上にぶちまける。綴じていないのでバラバラだ。すると虎雄が若いモンに目配せ。若人は直ぐに報告書を拾い集め、元あった封筒に入れると虎雄に一礼して渡す。
虎雄はそれを如何にも『自分がやりました』な顔で若頭に渡す。
「じゃぁ行くか」「へいっ!」「へいっ!」「ゴチになります!」
一人返事がおかしいが、行先は『上の店』なので間違いではない。
ちなみに『一般人が集う店』で若頭が幹事の飲み会は、『組長』のことを隠語で『渚ちゃん』と呼んでいるのは、公然の秘密である。




