海底パイプライン(百三十八)
石井少佐は人知れずあくびをした。咄嗟に『考える振り』をして口を覆ってみたものの、奥歯をグッと噛み締めてやり過ごす。
キリっとした顔の石井少佐を見れば、『今あくびをした』などと思うまい。そんな『間の抜けた顔』など誰にも見せはし無い。
「そろそろ到着ですかな?」「えっ? あっ、そうですね」
突然声を掛けられた形になってしまった佐々木車掌は、随分と慌てた様子だ。首を振って見た先は『時計』ではなく『外の景色』だ。
そこには『見慣れた風景』が流れていた。終点はもう直ぐ。
「少佐殿。今日は良い天気になりそうですね」「そのようだね」
改めて時計を確認すると、こちらも定刻通りだ。何も問題はない。
数少ない会話を卒なくこなして、佐々木車掌はもう一度窓の外を眺めた。なぁに。今は机の前で目を開けたままウトウトしていただけ。赤川駅を通過した後の『踏切の音』、ましてや新田名部川や田名部川の『鉄橋を渡る音』で、目が覚めない訳が無い。
「空気でも入れ替えますか」
立ち上がって窓辺に立ったのだが『後ろからの返事』が無い。
以前ドアを開けた際、石井少佐が手にしていた書類が散ってしまい怒られたことがある。いや『怒られた』と言うのは佐々木車掌の『受け取り方』であって、実際は『開けるなら一言頼む』と、あくまでも『協力的なお願い』をされたに過ぎないのだが。まぁ同じか。
「少佐殿?」「んん?」「あのぉ。窓を?」
振り返って石井少佐に確認を求めると、右手で口を覆い、何か『考えているご様子』ではないか。いけない。これは邪魔をしてしまったのだろうか。この『高速貨物列車・東鱗号』を、石井少佐は『思考を巡らせるのに丁度良い』とご愛用である。実に有難いことだ。
それを単なる『窓開け』で邪魔したとあっては、上から何て言われるか判ったものじゃない。
ただでさえこっちは『気を遣っている』と言うのに。
「あぁ。開けたまえ」「では失礼して」「アインビッフィン」
開けようとした佐々木車掌の手が、ビクっとなって止まった。
今何か『知らない単語』が後ろから聞こえたからだ。『津軽弁』と『南部弁』のバイリンガルである佐々木車掌にも判らないとは。
「今のは?」「ん? 今の? あぁ『ドイツ語』で『少し』だ」
それを聞いて佐々木車掌は頷く。ドイツ語を話すのはどいつだと。
「そう言えば『お医者様はドイツ語を使う』のでしたね」「うむ」
『こいつ』とは言えないが、それでも安心して窓を『少し』開けた。
「どうしてお医者様はドイツ語なんでしょうか?」「と言うと?」
大丈夫だバレてない。少佐殿は別に『ご機嫌斜め』な訳でもない。
「英語なら、まだ何となくでも『使える人』が、多いのになぁと」
だから佐々木車掌も気楽な感じで質問してみた。肩も竦める。
「あぁ。日本では古い医学用語が、ドイツ語だったからね」
軍事作戦ならいざ知らず『医学に関する雑学』ならと応じた形に。
「そうなんですかぁ」「中には日本語に翻訳しないで、ドイツ語のまま使われた医学用語もあるからねぇ」「ほぉ。それは大変だ」
医者は『頭が良くないとダメな理由』に納得して頷く。成程だ。
「だからカルテに書くときもドイツ語なんですねぇ。サラサラっと」
佐々木車掌は『羽付きのペン』で書いている素振りをしてみせる。
「それもあるが、車掌さん?」「はい。何でしょう?」
丁度鉄橋を渡っている所だった。振り返れば石井少佐は困り顔だ。
「そもそも『カルテ』がドイツ語だからね?」「あっそうだったんですか。それは失礼しました」「いや良いんだ」「後方ヨシっとぉ」




