海底パイプライン(百二十一)
「確かに高田部長って普段からあんな感じだけどさぁ」
口に手を当て、周りを気にしながらヒソヒソ声で言われては、気になるではないか。朱美も思わず周りを見渡した。誰も居ない。
「いざと言うときは?」「全然。普段から『普段通り』なんで」
思わず『ガクッ』となってしまった。どの辺が『重要』なのか判ったモンじゃない。しかし琴坂課長は、まだ口に手を当てたままだ。
「どういうことですかぁ?」「ナイショだよ?」「はい」「絶対内緒だからね?」「判ってます」「マジで」「だから判ってますって。私これでも『スパイの経験』があるんで」「えっ、産業スパイ?」「いやほら『製薬』って『機密の塊』じゃないですか」「あぁ『特許きょきょ局』とかぁ」「何噛んでるんですか」「東京特許きょきょ局」「もうそれは良いから、高田部長の秘密について教えて下さいよぉ」「あぁ」「長年連れ添った『相棒』から見た!」
聞いた話によると琴坂課長は、『高田部長が主任だった頃の新入社員』で、今直属で残っているのは『琴坂課長のみ』とのこと。
順当に行けば、次は『琴坂部長』になると普通は考える。
「あの人、凄い『秘密主義』なんで」「そんなの驚くことじゃ」
「いやいや。あの人の秘密主義は大分違うんだ」「だとしても『秘密』なんて、どこの誰にでも有ることじゃないですかぁ」
朱美の実家だって然り。幾ら実家であっても、『立入禁止』に指定されている部屋が有ったりするのだから。
親が幾ら朱美を甘やかしていたとしても、それは譲れない。
「でも違うんだよ。『あの人の秘密主義』は」「どの辺がですか?」「どの辺がって言うより全部かな。兎に角凄く徹底しているんだ」「それじゃ判んないですよ」「判んないかなぁ」「判る訳有りませんよ」「全部だよ?」「名前とか生年月日も?」「それもある」
当然のように頷いたのを見て、思わず朱美は吹き出してしまった。
毎日会社勤めをしておきながら、そんなことを『秘密』になんて出来る訳がないではないか。
「記憶喪失なんですかぁ?」「何言ってんのぉ? 話聞いてたぁ?」
「えっじゃあ『高田』って『偽名』なんですかぁ?」「シィィッ!」
朱美は思わず口を押えた。ちょっと声が大きかったかもしれない。しかし『制する側』の琴坂課長の声だって、大分大きいではないか。
半笑いの朱美と違って、琴坂課長は『ずっと真顔』なのだが。その顔に気が付いて、朱美の表情が『サァァッ』と変わった。
「誰が聞いてるか、わっかんないでしょ?」「すいません」
高田部長の話は、本来『廊下の立ち話でするような内容ではない』と、朱美も理解すべきだった。琴坂課長の表情はそれを物語っている。一瞬で理解した。もう一度、今度は黙って頷く。
「高田部長は『結婚式の仲人』なんだけど」「知ってます。私は断りましたけど、断れなかったんですかぁ?」「だって『丁度百組目だ』って言うからぁ」「関係無いじゃないですか」「いや俺だって断ったよ。そもそも『挨拶』を頼みに行っただけでさぁ」「ハイハイ。それは良いので『秘密』の方をお願いします」
自分で話を広げておきながら、勝手に打ち切りやがった。ちょっとむかつくが、こっちの立場は上司。流石に『舌打ち』は我慢だ。
「仲人をしてもらったらさぁ、『十年はご挨拶をしろ』って言うじゃない?」「そうなんですか? アッブねぇ」「はぁ? 何それ」
思わず左下を向き『本音』を吐露しているが、実は声にも。
「あぁあぁすいません。続きをどうぞ」「まったく……」
自覚して流石にバツが悪くなったのか、朱美は引きつりながらも笑顔で促した。琴坂課長ならこれ位で誤魔化せるだろう。
「大きな声じゃ言えないんだけど、絶対にココだけの話ね」「はい」
簡単に誤魔化せた。見た目通り、琴坂課長はチョロい奴だ。
これ以上の口を挟み、話が進まなくなっても困る朱美は、返事をした後に自分の口をチャックで綴じ深く頷いた。
「実は高田部長の『高』の字なんだけど、正式は『髙』らしいんだ」
朱美の右目尻がピクリと動いた。しかし琴坂課長は、随分と怯えた感じで周りを気にし続けている。そんなに気にすることか?
正直朱美には『だからどうした』なのだが。しかしここは我慢。
「しかも読みは『たかた』って、濁点が付かないんだ」「……」
再び右目尻が動く。今度は二回。ピクピクと。口元も同時に。
「何か『氏名を書かされる場面』があると、それを使い分けているんだって。知ってる? 知らない所から送られて来た名前を見て、『何処が情報を漏らした』のか、判るようにしてるんだってさぁ」
咄嗟に朱美は思う。『住所でやること』なのではないかと。
例えば住所が『銀座九丁目三番地』の場合、『銀座九ー三ー一』とか『銀座九ー三ー二』のように枝番を付ける。後は枝番と会社の対応表を作っておいて、知らない会社から手紙が届いたら、枝番で『漏洩元はこの会社』と判る寸法だ。その『名前版』なのか?
「それって普通『住所』でやりません? 名前でやる人って……」
いや普通はやりません。しかし朱美は思わず聞いてしまっていた。
「いやいや『住所でその手が使えない』からこそ『名前で』なのよ」
「はぁ? どぉゆぅ?」「実は住所って、誰も知らないの」「会社もぉ?」「勿論」「嘘ぉ届け出は?」「全部『私書箱』なんだよね」




