ガリソン(十二)
「な、なんだって! お前大丈夫か?」
父の反応が早かったのは、何も口に入れていないからだ。
「平気だよ」
琴美は風呂のガラスが割れた位で、そんなに焦ることでも、驚くことでもないのにと、思い始めていた。父の様子がおかしい。
そんなに驚いていては、タンクローリーが転がって来たら卒倒してしまうに違いない。いや、ヘリコプターか。
「ちょっと見て来い!」
母に対して命令調だ。そう言えば『お前』と言われたのも久し振りだ。だから『焦っている』と感じたのだろう。
「はい!」
母が食べ掛けの大福を皿に置き、父の命令通り大慌てで風呂場に飛んで行った。琴美はポカンとして見送る。
どうやら母も、同じ気持ちのようだ。父が『本領を発揮』していると、思っているのだろう。
何が起きているのか判らないが、こういう時に『本当に権力を持つ者』が明らかになるものだ。
そう考えている内に、父が席を立ち、琴美の両肩を掴んで揺する。
「本当に大丈夫か?」
「大丈夫だよ」
琴美は大げさな父が可笑しくて、笑いながら答えた。娘の笑顔を見ても、父の心配は収まる様子がない。
あちこち『気を使いながら』身体検査をしている。
「あなた!」
風呂場から母の金切り声が聞こえて来た。石鹸で滑ったのだろうか。よくある日常の一コマだ。
「どうした!」
父が母の声のする方へ飛んで行った。やはり娘も可愛いが、一番は妻なのだろう。ゴキブリが出た時と一緒だ。
琴美もリビングから廊下に出て、風呂場の方を見た。
そして、風呂の火を消していなかったのが『母の金切り声』な気がしてきた。確かに消したと思うのであるが。
操作を間違えたのだろうか。それとも、もう一度押して、点火してしまったのだろうか。
気になったので風呂場に行くと、脱衣所で母が怯えながら見る先で、父がガムテープをもう一度しっかりと、貼っている所だった。
「しっかり貼っておいたのになぁ」
「だめじゃない! 琴美はもう十八なんですからね!」
何だか、もう父には威厳がない。ペコペコと頭を下げて謝っている。どうやら立場は、完全に逆転してしまったようだ。
「済まんかった」
金切り声の原因は剥がれてしまったガムテープのようだ。
一度剥がしたのは琴美だが、それを父が『おかしいなぁ』と首を傾げつつ、侘びを入れながら直している。
「だから琴美は、貴方の後は嫌がるのよっ」
母の雷が落ちる。あぁ、これはあと数発は来る。
そうなの? と思いながら、琴美はそっと風呂場を後にした。
今年の誕生日が来ていないので『まだ十七歳』とか、どうでも良かったし、まさか自分がそのガムテープを剥がしたとは、言い辛い状況である。
そっと階段を昇っている所で、父と母が声を掛けて来た。
「済まなかったな」
「ごめんなさいね」
「ううん」
そう言いながら琴美は、階段を平然と上り続ける。こちらこそごめんなさい。もう二度としません。
踊場を回ると、父母の顔が見えなくなり、母の『雷鳴』だけが聞こえて来る。
琴美は、何故かホッとした。