海底パイプライン(九)
「おやすみなさい」『おやすみなさい』『おやすみ』
来賓食堂の対面にある扉から、二組の夫婦が別れて行く。
扉が閉まる前に腰に手を回して、まるで見せつけ合うように。互いに片方の手を小さく振りつつのお見送りだ。
扉が閉まった後はもう、神聖なる『夫婦の時間』である。誰にも邪魔はさせない。させてなるものか。させさせさせせさささせ。
朱美の可愛い耳が徹の目の前にあって、実に良い香りがしていた。
そうこれ。朱美の香り。久し振り。それが今夜は髪を後ろに纏め、普段は見えない耳全体が。後頭部から首に掛けての曲線が露わに。
おまけにその先の、首から胸に掛けてが丸見えとは。直ぐにでも吸い付きたくなる。吸い付こう。吸い付いたなら、吸い付け。
『バタン』『カチャッ』「あんっ」『パチン』『コンッ』
興奮した徹が欲望のままに、勢い良く朱美を抱き寄せていた。
それは朱美の腰に回していた腕に、グッと力を込めただけ。艶めかしい腰のくびれに、腕全体がピッタリと吸い付くのが判った。
朱美にしてみれば、予想だにしない出来事。叫び声に意図は無い。
勢いの余り、片足が宙を舞う。おまけに髪留めが弾け飛んだか。
優美な姿は一転。髪は乱れ、大きく曲げた足と一緒に、黒のイブニングドレスが跳ね上がっていた。そこだけは優雅にフワッと。
大きく開いたスリットから漏れ光る柔肌。太ももから折れ曲がった膝、ふくらはぎ。ピンと伸びた足先までが、まるで稲妻のよう。
ゆるりと降り、風も静かに落ち着いたに見えて、尚も着衣は乱れたままに。腰から下が細く丸見え。下着の一部が。今夜は黒。了解。
あぁ、この際『スリッパの行先』なんか、気にしては居られない。
「まぁだ」「良いだろう?」
抱き寄せてあともう少し。そこへ朱美のつれない言の葉。
嘘だろう? いつもだったら少し下に見える朱美の笑顔が、持ち上げたからか、正面に見えている。いや、少し上か。それも違う。
恥かしそうな視線を送る朱美の顔が。下から覗き込むように見えて『珍しい角度』と思う反面、それすら直ぐに打ち消した。
ベッドで見上げたのと全く同じ。そうだ。嘘な訳がない。
「だめよぅ。お願いっ」「……」
パッといつもの笑顔に変わった。顎を引いて上目遣いに。
しかし、さっきまで優しく肩に添えられていた朱美の左手には、少しばかりの力が込められていた。お陰で柔らかく反った朱美の上半身が良く見える。『強調されている』と言っても過言ではない。
さっきまで両親に振っていた右手は、いつの間にか『徹の顎』を捉えていた。優しく撫でまわしながら首筋から下へと駆け抜ける。
「お化粧直さないといけないから。先に行って、待ってて?」
コクリと首を横に振ってお願いされる。徹の目を真っ直ぐ見たままに。徹は堪らず朱美の頬を撫で始めた。正直、まだ離したくない。
ここで堪能したい欲望と、お願いを聞こうとする理性との闘い。
すると寛大にも、頭を撫でるのは許して貰えたよう。それとも、ゆっくりと悶えているだけか。とろけ行く眼差しは何を語る。
輝く瞳がゆっくりと瞬いた後、遂に逸れた。だが、それも良い。
「髪、伸ばしたの?」
徹は撫でていた手を止めて、小指で髪を掬い上げる。祈るような表情で目を閉じていた朱美は、その問いにうっすらと目を開き、コクリと頷く。少しだけ笑顔に戻って。徹は朱美の髪から手を離した。
しかしそれは『逃がす』を意味しない。抱き上げて歩き始める。




