プロローグ
よく晴れた朝だった。雲一つない青空が広がっている。
毎月初めに出される長期予報では、今年の梅雨は長いらしい。だからお気に入りの『傘』が売っていたら、買っておいた方が良い。
なんて言うのは、今日に限って見れば無粋な情報だ。
今日が晴れていればそれで良い。だって、未来のことなんて判らないのだから。判らないからこそ『折り畳み傘』の存在意義がある。
少なくとも琴美は、そう思っていた。
もし未来のことが判るのであれば『折り畳み傘』よりも『試験問題』の方が余程助かる。
高校三年の一学期中間試験は、もう目の前に迫っていたが、新任の先生がどんな問題を出すのか。その予想が難しい。
歩きながら単語帳を二、三枚捲ったが、直ぐに止めた。
見渡しても、駅に向う人の中で『単語帳』なんて出しているのは、多分受験生位なものだ。
琴美はそんな『年寄り』に見られたくなかったし、友達から『必死』と見られるのも嫌だった。もう走り寄って来ている。
「おはよー」
「おっはよー」
近所の真里が声を掛けて来た。琴美は単語帳をポケットに放り込むと、右手を挙げて挨拶をした。
去年までならパチンと手を打つのだろうが、今年は違う。真里も受験生だからだ。
「ねぇぇ、英語どぉすぅるぅ?」
真理が眠そうな声で聞いて来た。
「どぉしよっかぁ」
琴美は疑問形で返した。悪気があった訳ではない。眠いだけだ。
「山ティーの試験、読めないよねぇ」
徹夜でもしたのだろうか。ダルそうな声。
「そーなんだよねぇ」
横を歩く真里の方に、ヒョイと振り向いた。朝日が目に入る。
どうやら真里も、昨日は教科書と睨めっこをしていた様だ。おでこには前髪に隠された『一筋の線』が見える。
これは『教科書の勝ち』と、言って良いのだろうか。『真理の負け』と言った方が良いだろう。
琴美は自分のおでこを、そっとなぞって微笑んだ。セーフだ。
英語の山田先生は、十年間アメリカの商社に務め、世界中を飛び回っていた『元・エリートサラリーマン』だ。
それがどういう訳か、高校の英語教師として迎えられ、生きた英語を日本人の若者に叩き込むべく、意気揚々とやって来たのだ。
「受験に役立つのを、やって欲しいよねぇ」
琴美がそう言うと、真理も頷いた。
「いぃえるぅ」
二人がそう思うのも無理はない。だって二人共英語は苦手だ。
英語の授業で繰り広げられていたのは、どちらかと言うと『ピーチクパーチク系』又は『コント形式』とも言う。
そんな、まるで『英会話教室』を彷彿とさせるような、内容だったからだ。まぁ、それが悪いとは言わない。
ただ『実世界』ではそうかもしれないが、『高校生』には、ちょっと実践的過ぎた。お陰様で、ちんぷんかんぷんだ。
「あっ、ヤバイ」
「何?」
話しながら、駅前の国道にやって来ていた。信号待ちをする二人の前を、せわしなく車が行き交う。
その騒音の中でも、琴美に聞こえる位の『真里のヤバイ声』が聞こえて来たのだ。
「どうしたの?」
カバンをガサゴソしている真理に、もう一度聞く。
「ちょっと、消しゴム忘れて来ちゃった」
「なんだ。そこのコンビニで買えば?」
琴美が交差点の先を指さすと、真理の顔がパッと明るくなった。
「そうしよっか」
まったく。『真里のヤバイは大げさなんだ』と思いながら、琴美は笑った。信号が変われば、駅前のコンビニに駆け込めば良い。
交差点で信号を待つ人達が、黄色になった信号を見ていた。赤になったらあと三秒。カウントダウンの開始だ。
「ダーッシュ!」
真里が車の動きを見切って走り始めた。猫のように走って行く。
琴美が急ぐ様子はない。長い横断歩道を前にして、たじろいでいる訳ではない。
左手で単語帳を取り出そうとしていて、信号を見ていなかったからだ。真理がいない間にちょっとでも。そんなつもりだった。
いや『真理を出し抜く』とか、そういうことじゃない。
信号が青になっているのに気が付いたとき、集団の一番最後だった。歩き始めた琴美は、単語帳をパラパラと捲り始める。
あの授業内容で、どんな試験になるのか判らない。しかし基本は、英単語をどれだけ覚えているかに、掛かっているはずだ。
その時琴美を含め、周りの誰もが気が付いて居なかったが、一台のタンクローリーが、暴走していた。
運転手が過労の為に心臓麻痺を起こし、ハンドルに覆い被さっていたのだ。
丁度赤信号で止まっていた車の運転手は、バックミラーに写るタンクローリーを見て慌てた。
目の前には左右から車が来ていたが関係ない。そんなのより、後ろから迫り来るタンクローリーの方が、ずっと怖かったからだ。
アクセルを踏んで赤信号を飛び出すと、横から来た車が急ブレーキを踏んだ。けたたましい音がして、交差点の周りに居た人達が一斉に振り返る。
真里もコンビニの扉の前で振り向いた。
「ヤヴァイ」
タンクローリーは、乗用車の後方に乗り上げて大きく傾き、信号機に向った。そこで信号に運転席が衝突し、大破してガラスが飛び散る。信号機もびっくりしただろう。
タンクローリーのタンクは、事故が起きても、ある程度の衝撃には耐えられる。しかし、横倒しになった衝撃と、そこに横からやって来たトラックの衝撃には、とても耐えられなかった。
『ドン!』
鈍い大きな音がして、真里の髪が後ろに流れる位の衝撃が襲う。直ぐ後に熱い炎がやって来た。
それでも真理は叫ぶ。
「琴美!」
叫んだ声が琴美に届いたかは判らない。琴美は紅い炎と黒鉛の中に包まれて、見えなくなった。
しかしそれは関係ない。まだそこに琴美がいるはずだ。
真里は消しゴムのことなんか忘れていた。親友を救おうと、炎の中へ飛び込むことに躊躇なんてしていられない。
「危ない! 下がるんだ!」
突然、肩と腕を見知らぬ男に掴まれて、真理は動けなくなる。足だけがまだバタバタしているが、そんなのは関係なかった。
非力な受験生は引き摺られて、現場から遠ざかった。