第一話 降臨の日 2 狩り納め
十の月七日、降臨祭。とうとう儀式の日がやってきた。
早朝の森、木々の隙間から僅かな木漏れ日がさしている。
街門の外から少し離れた集落の近くにあるシャヒンの森、その中に俺はいた。
旅立ちの前に最後の猟をするためだ。
やがて見えた一本の木に背中を預けて、俺は目を閉じた。
今まで生きてきた中で俺は、そのほとんどをこの森で過ごしてきた。
この世界の半分は森に覆われていると、真偽はどうだかわからないが、いつか誰かにそう聞いたことがある。
子供の頃、もう亡くなってしまった祖母にせがんで聞かせてもらった昔話。
勇者たちの心躍る冒険の数々、裏切りの魔女が空を舞い火を放ち、翼の生えたドラゴンが我が物顔で大地を蹂躙する。
それらには森が舞台になった話もいくつかあった。
その中でも特に好きだったのは身も凍る恐怖の伝説の一つ。
何度も繰り返し聞いた物語、ヴィヴァレーの獣。
かつて地獄の底が抜け魔界の異形たちが世界に放たれた暗黒の時代があった。
彼らの主たる七柱が、銀の聖女と巫女とその盾により打払われたことを知り、その大半が去ったにも関わらず、ただ一つ世界に残った魔獣。
世界各地の森に神出鬼没、不幸にも出会ってしまった者は一噛みで体半分を削られる。
犠牲者に残された歯型の痕から推定して、十メートルを超える巨大な獣。
好むと好まざるとにかかわらず森を行くよりほかない旅人や狩人、行商人から被害者が後を絶たず、これ以上は好きにさせんと各地から集った腕に覚えのある戦士たちや名だたる英雄たちを、伝説の魔獣はその巨大な牙をもって彼らを容易く屠るのだ。
子供の頃の俺にとって、森という場所は恐怖の対象であると同時に、何もない退屈の世界に幻想を与えてくれる存在でもあった。
もちろん、近所の森から化け物が現れるなんて事件もなく、何事もおこらなかった。
それでも俺は満足していたし、毎日が楽しかった。
アリーシャたちと出会って街で遊ぶようになってから三年の月日が過ぎた。俺は十一歳になっていた。
そんなある日、ウサギやシカ等のなめした皮を街へと売りに行く父に、荷物持ちとして称して俺は、街の中にいる友達と会うためについていった。
その日のアリーシャはどこか様子が変だった。いつもなら率先してはしゃいで走り回っているはずの彼女が妙に静かで大人しかった。
どうにも気になったので何かあったのだろうかと彼女に聞いてみた。
彼女が言うには、今朝早く教会の人が家に訪ねて来て、自分が巫女に選ばれたということを告げたという。
その当時の俺でも、巫女の名前ぐらいは聞き覚えがあった。何度か行ったことがある教会で知ったのだと思う。
巫女とは、その名を冠した祝いの日が作られるほどの偉人である。はるか昔の物語の中だけでしか触れることのない、それぐらい俺にとって遠く離れた存在のはずだった。
にわかには信じられない話だし、それは驚いたけれど同時に納得もしていた。
アリーシャが人とは違う能力を持っていることを俺はすでに知っていたからだ。
あるとき二人だけ秘密だと言われて見せてもらったことがある。
街を抜け出し大きな岩がある原っぱまで二人で行った。けっこう歩いたので軽く休憩したあと、彼女は立ち上がり両手を大きく広げると片足立ちになった。そして、さぁどうぞと俺に言った。
最初、その行動の意味がよく分からなかったが、得意げな笑みを浮かべている彼女を見ていて察した。俺も立ち上がり彼女の肩に手を付けて押した。
最初はゆっくりと、徐々に力が入り最後には両手を使って。だが、どれだけ力を込めて押してもびくともしなかった。次に彼女は、自分より大きな岩を片手で持ち上げてみせた。そして、その岩を最後に手刀一つで叩き割った。
噂には聞いたことがある。強大な魔力を待つ魔族、強靭な肉体を持つ魔物、彼らと比べて非力な人間に与えてくれた神様からの贈り物、ギフトってやつだ。初代巫女の時代には数百人に一人くらいの割合で使い手がいたらしいが、今では世界でも数人しかいないと言われている。
アリーシャは初めてその能力を見せたあと、俺の顔をおそるおそるといった感じでうかがって見ていた。今から思えば、彼女が異能である事を知った俺の反応を知るのが怖かったのだろう。そのときの俺はなんて言ったのか、今はもう思い出せない。
巫女になるということは選ばれた人間になるということだ。それは間違いなくすごいことだと思ったし、なんだか羨ましくもあった。
だからこそ彼女がなぜ落ち込んでいるのか、その理由が俺にはまだ分からなかった。
巫女になったら家を出て教会へ行きその中で暮らさなければいけない、もう帰って来れなくなると、彼女は言った。
そうか、家を出て家族と離れることになるのが嫌なのかと、俺は言った。
しかし、アリーシャはそうじゃないと、首を振った。
今度こそ俺は分からなくなった。
そして彼女は家にも帰りたくないと言った。
俺は深く考えることなく、なら家に来ればいいと彼女に言った。
彼女は驚いた顔をしたあと、微笑んで頷いた。
アリーシャともう会えなくなる。彼女は教会の中から出られなくなってずっと暮らす。そんなのは俺も嫌だった。
さっそく俺はアリーシャを家に連れて逃げた。
アリーシャを家に連れてきた理由を困惑する両親に説明した。俺のつたない説明が終わるまで二人は黙って聞いていた。
そのときの俺は別に緊張はしていなかった。父と母なら助けてくれると疑うこともなく信じていた。悪い事をしているわけではない、彼女のためを思っての行動だからだ。
子供にとって親とは凄いものだ。自分の両親なら大丈夫だ。根拠はない。その狭い世界が全て、そういうものだ。
説明を聞き終えると、父は分かったと静かにうなずいた。それから、アリーシャを守ると確かに約束してくれた。
これで安心だと思った。何も変わらない日常がこれからも続いていくのだと。
翌日の朝、起きたときにはもう彼女の姿はなかった。
誰だって嘘をつく。当然、父と母も例外ではない。そんな当たり前のことを俺はそのとき初めて知った。
教会の使いが向かえに来たから引き渡したのか、それとも父が自ら彼女を連れて行ったのか、詳しくは聞いてないからわからない。そんなことはもうどうでもよかった。
それからアリーシャには会ってない。既に彼女の家にも教会にもいなかった。
アリーシャはこの街から遠く離れた場所に旅立っていた。
俺は取り返しのつかない間違いを犯していた。アリーシャの両親は彼女を巫女になんてさせる気はなかった。手放すつもりなどなかったのだと後で知った。
俺は間違えたのだ。
アリ-シャの両親は、最愛の娘を奪ったに等しい行為をしたといえる俺たち家族に対し、その報いを求めるような事は一切しなかった。実行することも簡単にできた。彼らにはその力もあった。事実上、世界を支配しているいっても過言でもないアリーメイア正教会という大きすぎる権力の前に、持たざる者にはどうすることもできなかったのだろうと理解を示したのだろうか。
いや違う、きっと彼らの良心がそうさせたのだ。だからなのか俺も両親を恨むようなことはなかった。それでも隠し切れないしこりが残るのは、口では守るといっておきながら何もできなかった無力そのもの、これは同属嫌悪というものだろう。
左前方で小さな気配が動いた。
木陰から身をおこし、向きを変え意識のざわめきに向かって矢を放つ。
見事に命中、白いウサギは悲鳴を上げることもなく絶命した。
この森での最後の狩の獲物であり、今日の朝食だ。
とっくの昔に、俺にとってこの森は、心躍る物語の舞台でも恐怖の対象でもなくなっていた。