2-F. 【閑話】この身を縛る糸(黒柳クロ視点)
大臣室で俺は頭を下げていた。
薄汚れて手入れされていない足元の革靴が目に入る。以前まで靴の手入れは妻がやってくれていた。だから、この靴は1年近く手入れされていないことになる。自分で磨こうと思う日もあったが結局そのままだった。
1年前、妻が妊娠した。
現代の出産は命の危険を伴う。魔法という仕組みは、妊婦や新生児などの弱者に対しても情け容赦なく強制的に生命力を搾取するからだ。そのため、人類の出生率は年々減少の一途を辿るばかりである。
特に、元々病気がちで身体の弱かった妻にとっての出産は、お腹の子供だけではなく己の命すら失いかねない危険なものだった。
予想通り、主治医からは出産を止められた。堕ろすようにと言われた日の夜には、妻と二人で肩を寄せ合って泣き腫らした。
それでも、妻は諦めなかった。天から授かった我が子を絶対に産みたいと譲らなかった。幾度となく妻を説得しようと試みたが最後まで彼女は頑なに首を横に振り続けるばかりだった。
最終的には俺が折れる形で、母子共に安全に出産できる道を二人で模索し始めた。
そんな時だったと記憶している。大臣から声を掛けられたのは。
ーークロくん。君の希望が叶う病院を紹介してあげようか?
その知らせに、俺たち夫婦はどれ程、歓喜したことか。その日は喜びのあまり二人で抱き合いながら、まだ見ぬ我が子の名前を夜通しで語り合った。
だが、美味い話には裏がある。温かく甘美な形をしたその言葉は、口に含めば猛毒だった。やがて毒は心を蝕み、俺の言動を今も縛り続けている。
こうして、妻は俺の知らないどこかの病院へ入院し、俺は大臣の飼い犬となった。
あの日以来、妻に会うことは叶っていない。
◇
「謝罪は結構。状況を説明したまえ」
ため息交じりの声に対して、俺は言葉を返す。
「現場からシロが逃走。今のところ足取りは掴めていません。それから、不明な協力者の存在が報告されています」
取り調べ室でのやり取りで、シロの心は完全に折れたと思っていた。まさか、逃走する気力が残っていたとはな。
「協力者?」
「現場の報告からは要領を得ません。ただ、気になる点として青木アオが姿を消しています。状況から見て彼が協力者と思われます」
担当者たちは口を揃えて、よく分からないと言っていた。協力者の人相どころか性別すら分からないとはどういうことなのか。
大臣の手駒の中でも優秀な警察官と聞いていたが、揃いも揃ってポンコツだったのか? あるいは、何らかの魔法による補助があったのか?
どちらにしろ、シロが頼れる存在はアオくらいだろう。あいつが協力者で間違いない。
「そうか。それで捕まえる目処は立っているのかい?」
声の温度が下がったことを感じ、俺は身構えた。
現場の指揮を任された俺に責を問われている。失点は速やかに挽回しなければならない。俺が無能と切り捨てられてしまえば、妻の命も切り捨てられてしまう。
「恐らく彼女たちは、市外へ逃亡を図ろうとするでしょう。その際の彼女たちの足は列車のみです。そのため、列車は既に押さえています。時間の問題でしょう」
「よろしい。シロくんを迎える席は用意してある。快く彼女に協力してもらうよう、全力を尽くしたまえ」
この人は、言外にアオを消せと言っている。今後叛意を抱かないように丁寧に、だが確実にシロの心を折ってこいと。それを俺にやれと言っている。
青木アオ。性根の真っ直ぐな好青年。白神姉妹に比べれば凡庸だが、身の丈を知り一歩ずつ確実に歩む姿勢には好感を持っていた。
アオとは妻の手料理をご馳走する約束をしている。シロも一緒に自宅へ招いて、二人に夫婦の心得を説く夢を見ていた。もう夢を見ることが許される年齢を過ぎているというのに。
また俺は大事な部下をこの手に掛けなければならないのか。
少し感傷に浸りすぎたのだろう。気がつけば、心の奥底に秘めていた質問を大臣に投げかけていた。
「ところで、妻は無事に出産できたのでしょうか? いつ、妻に会わせてもらえるのでしょうか?」
「母子共に健康だそうだよ。今回の件、成功した暁には会わせてあげよう」
俺の問いに、大臣はつまらなそうな表情を浮かべながら答える。
大臣の理念は崇高なものなのだと思う。人類の存続を最優先目標に据えて、最適な道へ進もうとしている。たとえ、小を犠牲にしようとも、大多数の人類を救えるのであれば情を切り捨て迷わず進むのだろう。大局を見れば、きっと人類にとっての正義は大臣にあるのだろうと思う。
だが、切り捨てられる者たちにも心がある。使い捨てられる飼い犬にも、これまで生きてきた背景がある。シロにも、アオにも。そして俺にだって。
言い返す言葉を飲み込み、俺は礼を返した。
***
研究室に戻った俺は、自席でひと息ついていた。静まり返る室内では吐く息の音すら騒がしく感じられる。
ふと、視線をモモの机に向ける。
何度も注意したはずだが、相変わらず机の上には書類が散乱している。だが、もう書類が片付けられることはない。持ち主は俺がこの手で殺してしまった。
白神モモ。天真爛漫でこの研究室のムードメーカだった。興味のある事柄以外に全力を出さない、そのムラっ気も含めて俺は好感を持っていた。顔を合わせる度に軽口を叩きあった日々が懐かしい。永遠に続けば良いと思っていた。だが、その未来を奪ったのは他ならぬ俺自身だ。
視線をシロの机に向ける。
妹とは対照的に、机の上は見事に整理整頓されている。持ち主の心境とは真逆の状態だろう。当然だ。彼女の置かれた状況は短期間で急激に変わり過ぎている。誰だって気持ちが錯綜するだろう。その要因となった俺たちを恨んでいるかもしれない。
白神シロ。責任感が強くしっかり者でこの研究室の実質的な実務責任者だった。若手特有の愚直な青臭さを感じるものの、経験を積めばこの研究室の室長を任せることができる、俺の自慢の部下だった。彼女の成長を最後まで見れないことが本当に残念だ。
出会った当初、どちらかと言えばシロよりもモモに才覚を感じていた。モモの才能は、俗に言う『零から一を知る』もので誰から見ても分かりやすい。だが、共に過ごしてシロの才能を目の当たりにする。
シロは一見無関係な点同士を結んで物語を奏でる。俗に言う『一を知って十を理解する』才能だが、あそこまで突出していると最早唯一無二の存在だ。彼女が発表した論文には衝撃を受けたものだ。なるほど、たしかに大臣が執着するのも頷ける様だった。
ーー魔法考古学研究室
この研究室も、室長という役割も、全てシロを囲うためだけに用意された装置でしかない。
その事実が分かっていても、俺は研究室も部下たちも全てが好きだった。短い間だったが愛着を感じている。別の形で出会えたならばと願わずにはいられない。
けれど、妻を守るため俺は部下たちの未来を奪うことを選択する。最愛の妻より優先すべきものなど何一つない。たとえ、修羅の道を進むことになろうとも。それが俺の答えだ。
視線を戻し、研究室を見渡す俺の視界に写真立てが入る。幸せそうに笑っている妻の写真がそこにあった。
気がつけば俺の手は汚れて赤黒く染まってしまった。愛する妻はこの手を再び握ってくれるのだろうか。未だ見ぬ我が子を抱きしめる資格は残されているのだろうか。
シロは命の選別を忌避していた。だが、何事にも犠牲は付き物だ。では、俺の進もうとする道は正しいものなのだろうか。そして、この先には何が待ち受けているのだろうか。
誰でもいい。
俺は間違っていない、と誰かそう言ってくれ!




