2-9. その手を取る資格
「シロちゃん。走るよ!」
声と共にシロは手を引かれる。状況の変化に理解が追いつかないシロは、足がもつれながらも導きに応じて駆け出した。
(この手の主は誰?)
ここから逃げ出す術を探していた。だから渡りに船ではある。しかし、この手の主は誰なのか? 敵なのか、それとも味方なのか?
二足歩行をし、腕も2本あることから人間である事に間違いはなさそうだ。だが、輪郭に靄がかかったかのように見え、性別すらはっきりと判断することができない。これはどういう事なのだろうか。
「シロちゃん。そこの脇道に入ってやり過ごすよ」
声に導かれるまま、シロは薄暗い路地裏に入る。呼吸を乱しながらも、しゃがんで、と言葉を発する声の主は、シロの前に右手を差し出した。
「この手を。掌にある触媒を握って! 早く!」
目を瞬かせながら掌にある触媒を見つめる。小石ほどの大きさで、透き通る青色は今日の空模様のようだった。
返答を催促する声の主の視線を感じ、シロは息を無理矢理に整わせて言葉を絞り出す。
「貴方は......誰? この触媒はなに?」
目の前の人を信じて良いのだろうか。私を助けようとしているように見えるが、味方だと思って良いのだろうか。けれど、どうして味方をしてくれるのか理由がわからない。
「説明は後! 早く握って、触媒を起動させて!」
「まだこの辺にいるはずだ! 早く見つけ出せ!」
声の主と、追っ手の言葉が重なる。
「わかったわ」
時間がない。もうこの人に賭けよう。シロは差し出された手を握り返した。彼女の手の周りを金色の粒子が包み込む。
直後、追っ手の男性の視線が路地裏の二人を捉えた。
「こっちには居ないようだ」
追っ手の男性とシロは目が合った。そう感じたはずだが、相手はシロの存在に気づかなかったようだ。
「じゃあ、向こうを探すぞ。急げ!」
男性の荒げる声とともに複数の足音が遠ざかっていく。
◇
「そろそろ、動いても大丈夫かな」
目の前の声を聞き、シロは時計に視線を向ける。長い時間潜んでいたように感じたが、5分程度しか経過していないようだ。
「説明を要求します!」
「早く移動したほうがいいから詳しくは後にさせて。まず、僕らを救ったのは認識阻害の魔法だよ」
声の主は、お互いの手で握られた触媒を軽く上にあげた。
この触媒を起動している間は、個体を認識することができないそうだ。シロが声の主を認識できなかった理由はこの魔法が原因だった。
二重起動しているから僕のことはまだ認識できないのかな、と言うと目の前の人は、どこからか別の触媒を取り出して効果を切る。
「......アオくん?」
「良かった。シロちゃんにも僕を認識できたみたいだね」
突然、目の前の人がアオに変化したように見えた。見覚えのあるその顔は、アオは優しくシロに微笑みかけている。
驚き、喜び、安心。多種多様な感情が突然に暴れ始め、シロは思わず言葉を失う。
「この魔法は効果時間が短いんだ。だからすぐに移動するよ」
アオの声に黙って頷くのが精一杯だった。様々な感情に胸が一杯で言葉が出てこない。繋がれた手に導かれるまま、歩みを進めた。
(胸の高鳴りが収まらない。追われていることへの恐怖なのか、掌に感じる体温のせいなのか)
引き摺られるようにアオの後ろを歩くシロは、彼の背中を見つめながらそっと胸を押さえる。
***
導かれた先にはホテルがあった。古びた外観に質素な受付から、安宿の印象を受ける。お世辞にもお洒落とは言えない。
逃避行ならこういうところの方が雰囲気あって良いよね、と笑うアオと一緒に受付へ向かう。
「1部屋お願いします。ええ、僕ら2名です」
時折、首を傾げながらも手続きを進める受付の様子に、本当に私たちのことを認識できていないんだね、とシロは感心する。しかし、この認識阻害の魔法をアオはどのように入手したのだろうか。少なくとも、私はその存在を今日初めて知ったのだけれども。
「この部屋だね。思ってたよりは酷くないかな」
受付を終えたシロ達は、借りた部屋へ足を踏み入れる。手狭で最低限の家具しかない部屋を見渡し、アオは苦笑しながらも頷く。
「しばらくはここで逃亡生活かな。そうそう、もう触媒の効果は切っていいよ」
アオの声を聞いたシロの目線が突然大きく下がる。
「どうしたの? 大丈夫?」
「腰が......抜け......」
安心したら腰が抜けてしまったようだ。その場にペタンと座り込んだシロは顔を上に向ける。
「ビックリした! 怪我しなかった?」
驚きながらも彼は手を差し出す。
シロは精一杯の笑顔を作ろうとした。話をしなければならないことは沢山ある。お互いの情報共有が必要だ。この先のことも考えなければならない。だから、早く目の前の手を取らなければ。冷静に話し合いを始めなければ。
「......アオ......ん」
震える口から出たのは、情けなく彼の名を呼ぶものだった。上手く口から言葉を発することができない。視界が徐々に歪み、彼の表情がわからない。
突如、視界は何かに覆われ、全身が包み込まれる。安心させるように彼が抱きしめてくれているようだ。
「これからは側に居るよ。もう大丈夫だからね!」
耳元で囁かれた言葉が切っ掛けになった。
「あおくうぅぅぅぅぅ......」
もうこれ以上耐えることができなかった。必死に感情を堰き止めていた何かは、彼の言葉で溶けてなくなってしまう。一度、暴れ始めた感情の奔流はもうどうすることもできなかった。
「うぅぅぅぅぅ」
静まる室内にシロの嗚咽だけが響いていた。あやすかの様にアオは黙ってシロの背中を摩り続ける。
(アオくんに聞いて欲しかった。そばにいて欲しかった。)
ずっと不安だった。刻々と変わる状況が。先を見通すことが出来ない自分の置かれている現状が。どうすれば良いのか分からない、いっそその場で叫んでしまいたかった。
とても怖かった。人を道具として見る大臣の視線が。屈強な男達に囲まれながら過ごした自宅が。震える手足を隠しながら、理性的に相対することがどれほどに困難なことだったか。
すごく悔しかった。大事な人達の命を軽く扱われたことが。最愛の妹の命を奪われて何も出来なかった自分が。復讐したい、彼奴らに同じ屈辱を味わせてやりたいと願うのはおかしいことなのだろうか。
「......ん...」
無様にも泣き腫らしてしまった。それでも何も言わず側にいて、落ち着くまで抱きしめ続けてくれる彼の優しさが嬉しい。
彼の体温が心を少しずつ癒してくれる。彼の匂いが安らぎを与えてくれる。心が満たされる一方で、胸の奥の痛みは増していった。
「最初にシロちゃんと何を話そうか、ずっと考えていたんだ」
抱きしめるアオの力が強くなる。彼の鼓動が速さを増す。
「やっと決まったよ。いや、今決めたんだ」
密着している彼から緊張が伝わる。息遣いに紡ぐ言葉を探している様子が窺える。そして、彼が何を言おうとしているのかも察してしまった。
「シロちゃん。僕は貴女のことがーー」
「やめて!」
言葉を遮る様に、彼を突き放していた。両腕の長さだけ心の距離が広がる。
「今はまだ言わないで......」
言葉の続きを彼に言わせてはいけない。聞いてはいけない。嬉しく思ってしまうから。気持ちが通じ合うことに幸せを感じてしまうから。
モモは間接的に私のせいで命を落とした。妹の屍の上で私だけが幸せになるなんて許されるわけがない。妹を巻き込んだ、その事実を軽く扱うことを自分自身が許せなかった。
「『今はまだ』だね。分かったよ」
少し悲しげな笑顔を見せた彼は、表情を引きしめると真剣な目で言葉を続ける。
「だったら、心の整理が着く迄いつまでも待つよ。そして、何度でも同じことを言うから。だから、シロちゃんも答えを用意しておいてね」
誠実とはとても言えない対応をした私を彼は待つと言っている。どこまで優しい人なんだろうか。シロは思わず俯く。
「この話は一旦保留だ。じゃあ、シロちゃんはそろそろお休みの時間だよ。疲れ切っている顔をしているし」
その他の話は起きてからね、と言うアオは、ひょいとシロを抱えてベッドまで運ぶ。
「ゆっくり休んでね」
シロは肉体的に疲労していた。風島の旅から碌に休めていない。全身が休息を求め続けていた。
精神的にも疲弊していた。感情は喜怒哀楽の間をジェットコースターの様に駆け巡り、心をすり減らしていた。
アオの声に目を閉じると、そのまま夢の中へ沈む。




