1-2. 研究室の愉快な仲間たち
カリカリ、と豆を砕く音が研究室に響き渡る。円を描く様にミルのハンドルを回す仕草は、とてもリズミカルで見ていて飽きない。決して目の前の報告書から目を逸らしたいからではない、とモモは自分に言い訳をする。
しばらくすると、砕かれた黒色の粉末と水を隣の装置に流し込み、シロは中央にある深紅色の石に手を触れる。淡く金色に輝く粒子が白く細い手の周囲に舞った様子から、魔法が起動されたことを見て取れる。直後、注ぎ口の下に置かれるカップに琥珀色の液体が注がれる。辺りには芳ばしい香りが広がった。
「ブラックで良かったわよね?」
湯気の立つカップを持ちながらシロは尋ねる。スッと作業机に置かれた桃色のカップには愛らしいキャラクターがプリントされている。
「お姉ちゃん、ありがとう。それより、そんなに手間を掛けて珈琲を淹れなくてもいいのに。普通に淹れた珈琲も私は好きだよ」
シロの淹れ方は原始的な魔法の使い方だ。普通は豆から直接珈琲に変質させる。カップに豆を入れて魔法を起動するだけなのだから、豆を砕く必要もお湯を沸かす必要もない。
視線をカップに向け両手で包み込むように持つと、ふーっと3回息を吹きかける。表面が不規則に波打った。そのままカップを近づけて、独特な苦味が口内に広がることに満足すると視線をシロへ戻した。
「んー、この方が美味しく感じるからかな。料理だって手間を掛けた方が美味しいでしょ?」
そう言って微笑むと、シロは隣の席へ座り、白色のカップにミルクと角砂糖2つを入れた。一度口を付けると首を傾げながら更に1つ入れる。
「じゃあ始めましょうか。私はこっちをやるから、モモはこの束をお願いね」
手早く書類の束を分けると、シロはペンを取った。いつの間にか段取りが決まっている。姉の仕事の速さに感嘆しつつ、モモは書類に目を落とした。しばらくの間、紙の擦れる音だけが部屋に響く。
シロとモモの姉妹は今年の春に研究室へ入った。既に研究者として即戦力級の活躍を見せているが、まだ半年弱の勤務経験しかない新人である。だが、2人とも22歳という若さでありながら、飛び級で博士課程を修了しただけあり優秀だ。目の前の書類があっという間に片付いていく。いや、少し訂正しよう。主に姉の段取りが優秀だったようだ。
「終わったー。本気の私を見たか、お姉ちゃん!」
そう言うとモモは大きく伸びをした。胸部にある2つの大きいお山が自己主張をし始める。うすい茶色のサイドテールも元気に跳ねている。
「お疲れ様。やれば出来るじゃない。これに懲りたらお仕事は溜めちゃダメよ」
先に寛いでいたシロは、労うようにモモのフワッとカールした髪を撫でる。謙虚な性格に合わせるように、シロの胸部はもの静かだ。
***
「戻ったぞ」
ドン、という音とともに扉が勢いよく開くと、長身痩躯の男性が研究室へ入って来た。こめかみには青筋が立っており、感情を隠す様子のないその目の圧力で、掛けているメガネのレンズが割れそうだ。まだ30歳の筈だが艶のない黒色の間から覗く白髪に、日頃の苦労を感じる。
「おい、白神妹。話があるからこっちへ来い」
近くにあった木製の椅子を移動させ、男性は扉の前を塞ぐように座った。話し合いが終わるまではモモを逃す気はないようだ。その反応は致し方無い。彼女には説教の途中で逃げ出した前科があるのだから。
「すみません。でも、私はまだ何もしてませんってば! 信じてくださいよ」
反射的に謝罪したモモは、報告書の件だなと思った。だが、先ほど終わらせている。今更怒られるなんて理不尽だ。彼女の脳内では、怒りを回避する方法が高速で計算されていく。
「ほらほら、そんなに怒ると整った顔が台無しですよ、室長」
感覚肌の天才であるモモは瞬時にゴマすりを選択した。流石、天才である。いつも通りに言葉の選択を間違えたのか、室長の目が更に吊り上がった。メガネからピキっ、という不穏な音がした。大丈夫、まだ割れてはいない。
「報告書の件だ。そう言えば、俺が言いたい事は分かるよな?」
「そうだった。『提出』を忘れてたんだった! しまったなー。随分前に作成終わっていたのに、提出だけ忘れてましたよ」
そう言ってヘラヘラ笑うと、作業机に纏めてあった資料の束を室長へ渡した。背後からシロの冷たい視線を感じるが無視だ。妹に甘い姉は告げ口などしないだろう。
「コラ、白神妹! 出来ていたのならば次は早く提出しろ。術式研究課の奴らから嫌味を言われるのは俺なんだぞ」
深くため息を吐く室長の顔をチラリと見る。先程は吊り上がっていた目が、一段下がったようだ。よし、もうひと息。そう考えるとモモは俯き、気を付けますと気弱な様子で返事した。
「クロ室長。モモも反省しているようですし、この辺で。私からも言い聞かせますから」
シロが2人の間に割って入る。姉の一言で、室長の目が更に一段下がった。流石、お姉ちゃん。タイミングが完璧だ。モモは姉に心の中で拍手を贈る。
「そうか、白神姉。だったら、こいつの手綱をちゃんと握っておけよ」
「はい。ところで、前から思ってましたが言いづらくありませんか? 特に『白神妹』って。名前呼びか、フルネームの『白神モモ』呼びで良いのではないでしょうか?」
「別に。気になるんだったら考えておこう」
伝われば何だっていいんだがな、と室長は呟く。
黒柳クロ。この魔法考古学研究室の室長、最高責任者に当たる。
前所属は総務課の一職員。30歳という若さ、非研究職から室長職への大抜擢という、通常では考えられない大出世に周囲はとても驚いた。
ここで研究室についても触れておこう。
中央省庁『魔法省』には5つの内部局が存在する。『大臣官房』や『開発研究局』などだ。例えば、モモが作成した報告書の提出先になる『術式研究課』は、『開発研究局』という内部局に所属する組織だ。
では、今年の春に新設されたばかりの『魔法考古学研究室』はどうなのか? 実は『開発研究局』ではなく『大臣官房』の所属組織になる。魔法省現大臣の肝いりで新設され注目を集めるこの研究室は、様々な政治的思惑から大臣直属の組織という異例の扱いとなっているからだ。
異例の組織に、異例の大抜擢された若き室長。そして、部下は3名のみ、しかも全員今年の新人だ。特に双子の天才姉妹は開発研究局の各課から熱望されていたにも関わらず。この組織を語るには多くの『異例』が付きまとう。
そんな異例の彼らは省内では浮いた存在だ。周囲からの嫉妬も多く、その皺寄せの多くは責任者のクロに集中する。毎朝、鏡の前での白髪チェックが日課となっている彼の気苦労は、残念ながら部下、特にモモには伝わっていないようだ。しかし、彼にも心の癒しは存在する。
クロには今年で結婚2年目の妻がいる。夫婦の間の熱量だけを言えば、まだまだ新婚のようなものだ。総務課時代から彼の愛妻家ぶりは有名であった。彼の作業机には、所狭しと溺愛する妻の写真が飾られており、職場で愛用するカップには妻の写真がプリントされている。異動後は控えるようになったが、それでも暇を見つけては妻の惚気話が始まる。周囲が眉を顰めても御構い無しの様子だ。
***
トントン、と控え目に扉を叩く音がした。しかし、その扉が開く気配はない。
「アオくんかしら?」
シロはそう呟くと、ゆっくりと立ち上がり、扉の前まで静かに歩く。
そっと、ドアノブを引くと、シロの目の前には段ボールの箱が立っていた。いや、2段重ねの段ボールの箱を抱えた人が立っていた。
「扉を開けたわよ。足元に気を付けてね」
シロが声をかけると、助かったよ、という柔らかな男性の声が段ボールから返ってきた。直後に、のそのそと目の前の茶色い箱が動き出したため、彼女は扉を押さえたまま脇にずれた。
「アオちゃん、箱を1つ床に下ろせば?」
様子を見ていたモモは思わず声をかける。積み上げた箱の背はアオの身長より高いため、彼の顔が完全に隠れてしまっており、まるで段ボールが歩いているようにしか見えない。というか、彼自身が前を見ることができていないだろう。この研究室までどうやって歩いて来たのだろうか、と彼女は疑問に思う。
「下ろすのを手伝うわ」
そう言って、シロは上段の箱に手を伸ばした。中身は分からないが、細腕の姉1人には荷が重いかもしれない。私も、とモモは駆け寄り姉を手伝う。
◇
「前が見えなくて大変だったよ。2人とも手伝ってくれてありがとうね」
身軽になったアオは、そう言って双子の姉妹を労う。その爽やかな笑顔は主にシロへ向いているが、当の本人も満更ではないようだ。姉はキラキラした笑顔を返す。
青木アオ。双子の姉妹と同じ22歳でこの研究室の職員だ。
彼と姉妹は所謂幼馴染で同窓でもある。しかし、普通に学士を修了した凡人の彼では、研究者としての力量は姉妹に遠く及ばない。この研究室でも、姉妹や室長を補佐する役割を担っている。雑用係ともいう。
アオを一言で表すと、爽やかな青年だ。キッチリ整えられた黒い短髪、彼の体に合うようにオーダーメイドされたスーツからは清潔感が漂う。動きやすくラフな服装が推奨されている省内では少し浮いた存在に見える。
アオの背丈は男性の平均より少し低い。モモよりははるかに高く、シロより少し低い。姉がヒールの高い靴を履かない理由の一つでもある、とモモは内心考えている。おっとりとした性格で少し抜けているところもある彼だが、しっかり者で面倒見の良い姉とは相性が良いようだ。何なら、学生時代から恋愛的な意味で相思相愛だ。しかし、今の所はまだ友人関係のままだ。奥手な2人の関係は、いくら周囲が煽っても一向に進展がない。
「アオくん、お疲れ様。珈琲で良いかしら?クロ室長もどうですか?」
シロはそう言うと、目の前の棚から黒色と青色の2人分のカップを取り出した。
「「よろしく!」」
2人の声が重なる。ついで扱いにされたクロの声の方が若干大きく響いた。
◇
「はい、お待たせしました」
手間を掛けて珈琲を淹れたシロは、アオの前まで歩くと青色のカップを笑顔で手渡しした。机の端に静かに置かれただけの黒色のカップに視線を向けると、その扱いの差にモモは密かに涙する。
「とても美味しいよ。こんなに美味しいなら毎日でも飲みたいな」
破顔するアオの言葉に、シロは耳を赤らめながら無言で俯く。更に、姉のその反応を見てアオも顔を赤らめながら目を泳がせるものだから、2人の周囲の空気がなんとも言えない微妙なものに変わる。おかしいな、2人とも成人している男女のはずなんだけど。中高生の初々しい恋人のようなやり取りにモモは苦笑するしかなかった。
「室長、ラブコメです。この研究室からラブコメの空気を感じます!」
微妙な空気になった際のモモの行動は決まっている。いつも通りに彼女はクロへ話を振った。うん、室長も苦笑いしているようだし正解の行動だね、とモモは笑う。
「よし、換気だ! 部屋の窓を全開にして空気を入れ替えるぞ」
モモの悪ノリに乗って、クロは研究室の窓を全開にする。窓の外では、雲が西から東へと流れており動きがとても速い。どんよりと黒ずんだ空からは今にも雨粒が落ちてきそうな様子だ。今朝のニュースの情報通り、台風が近づいているため風が非常に強い。そんな状況で窓を開けたらどうなるのか?
「クロ室長! 早く窓を閉めてください。書類がバラバラになっちゃいましたよ」
シロの糾弾に慌てて窓を閉めたが少し遅かったようだ。作業机に積み上がっていた書類の束が床に散乱している。片付け手伝うよ、と言うアオの慰めの声を聞きながら、クロはそっと溜息をつく。