2-2. 奏で始めた鎮魂曲(1)
研究棟3階の談話室には、1人紅茶を啜るシロの姿があった。人の疎らな室内には軽快な音楽が流れており、幾何学模様の描かれたポップな柄の長椅子に座る彼女との調和はとても絵になる。
研究者の創造性を高める目的で、研究棟には各階に談話室が設置されている。軽食も取ることができるこの部屋は、息抜きは勿論のこと、会議や懇談など多目的で利用されており、今も省内の職員達は思い思いに時を過ごしている。
しかし、先程から時計を気にする素振りを見せ、視線の落ち着かないシロは、息抜きというよりは秘めた逢瀬をしているように見える。
近づく足音にシロは顔を向けた。
「あれ、シロじゃん! 偶然だね。こんなところで何してんの?」
「見ての通り、休憩よ。アイこそ、こんなところでどうしたの?」
「私は用事が終わってちょっと休憩しようかと。奇遇だねー」
アイの仕草がわざとらし過ぎるのだけれど、とシロは苦笑する。長椅子の横にズレて座り直したシロは、視線で着席を促す。だが、アイは首を横に振った。長居する気は無いらしい。
「最近、青木とはどう? 上手くやってる?」
「別に。アオくんとは普通よ」
「普通って。あんた達、何年進展してないと思ってんのさ」
「それは......その......いいのよ、私達はこれで」
「そっかー。そういえば、たまたま女性誌を持ってるんだけど貸してあげようか? デート特集の記事は絶対に役立つはずだよ」
アイのよく通る声は疎らな周囲の視線を集める。この子、絶対今の状況を楽しんでいるでしょ、とシロは呆れる。
「わざわざ、ありがとう。参考にするわ」
笑顔を痙攣らせながら、アイの持つ茶封筒を受け取る。
「じゃあ、私はそろそろ戻るから。青木と進展あったら報告よろ!」
そう言うと、いい笑顔を残してアイは背を向けた。
***
研究室に戻ったシロは、少し間を開けてからクロの席へ向かう。
「クロ室長。申し訳ないのですが、本日は体調が優れないため早退させていただきたいのですが」
シロの言葉に顔を上げたクロは、彼女に続きを促す。その瞳には真意を問う色が見て取れる。
「立っていられないほど辛いわけではないです。ただ、大事を取ってということで。幸い、急を要するお仕事もございませんし」
「まあ、そうだな。俺から依頼したい仕事もないしな。無理して倒れられても困るから許可しよう。ゆっくり療養しなさい」
「ご迷惑をおかけします」
クロの許可に頭を下げる。直後、背後からモモとアオの声がした。
「シロちゃん、大丈夫?」
「お姉ちゃん、体調悪いの?」
振り返ると2人は心配そうな表情を浮かべている。胸の奥がチクリと痛んだ。
「大丈夫よ。念のために早退するだけだから」
儚げな笑顔を演出してシロはそう答えると、モモが家まで付き添ってやれ、とクロの声が続く。
「モモ。お仕事のキリが良くなったら、付き添いをお願いしてもいいかしら?」
「分かった。今すぐ帰ろう。家についたらゆっくり休むんだからね! 家事とかしちゃダメだからね!」
「モモ、心配し過ぎよ。そこまで酷い状況じゃないわ。じゃあ家までお願いね」
モモを安心させるように笑みを返すと、一緒に帰り支度を始めた。
「では、早退させていただきます。クロ室長、アオくん。後のことは頼みました」
「ああ、お大事にな」
「分かった。ゆっくり休んでね」
「お姉ちゃん、早く早く!」
モモに手を引かれながら、扉の方へ歩みを進める。
直後、クロの刺すような視線を背中で受け止める。その視線を感じながら、最後まで気弱な姿の演出を忘れないように、とシロは強く意識して扉を引いた。
***
研究室から自宅までは徒歩5分程度の距離になる。いつもは騒がしい帰り道なのだが、今日はお互い無言で足を動かしている。
チラリと横を見ると、難しい顔をしたモモがそこにいる。口は固く閉ざされ、何かを考え込んでいるようだ。
モモとは毎日顔を合わせている。流石に、顔色で見破られたかな。帰宅後の追求の訪れをシロは予感した。
自宅の前に着いたシロは、モモに先に入るよう促すと、鞄から荷物を取り出す素振りを見せながら背後を盗み見る。懸念していた光景を見つけられなかった事に、一先ずは安堵した。
◇
2人が自宅に入り扉を閉めると、モモの口が開いた。
「お姉ちゃん。どういうことか説明して!」
モモの真剣な眼差しを前にシロは思い悩んでいた。
「何のこと?」
口を開いて出たのは、逃げの言葉だった。
「仮病なんでしょ? どうして? 何があったの?」
そんなシロをモモは逃してはくれなかった。彼女の視線が鋭くなる。シロは悩んでいた。
これからの行動を考えればモモの協力は必須だ。事情を説明すれば彼女も快く協力するだろう。だが、彼女を巻き込むことになる。
風島の時とは状況が違う。今回は明らかに踏み越えてはいけない線を越え、真実に近づこうとしている。その先に何が待ち構えているのか、シロは予想できていない。それが彼女を躊躇させていた。だから、今回はアオを巻き込まなかった。モモも巻き込みたくはない。
「お姉ちゃんの力になりたいの。お願い、だから話して」
「十分、モモは私の力になってくれているわ」
「誤魔化さないで! 辛そうなお姉ちゃんを見るのはもう嫌なの! 1人で抱え込まないで私にも背負わせてよ」
懇願にも似たモモの言葉を聞き、シロは目を瞑り、思考の海に潜る。
研究者としての私はモモの協力が欲しい。術式研究者としての彼女は、側にいるだけで非常に心強い。私よりも彼女の方が優れているのだから。
姉としての私は......。ここまで想ってくれている妹の優しさが嬉しい。だからこそ、危険に巻き込みたくはない。それに1人で抱え込んでいるのは......。一瞬、仄暗い感情が脳裏を過る。
ーー違う、違うのよ! 今のは私の本心では無い。抱いてはいけない感情だ。だから、違うんだ。
「話してくれないんだったら、私は勝手に動くよ。お姉ちゃんが何をしようとしているのか、自分で調べて勝手についていくからね。もう待つのはたくさんだ!」
思考を遮るモモの言葉は、迷うシロを追い詰める。
少しだけなら。ほんの少しだけならば、巻き込んでも大丈夫だろうか。慎重に、丁寧に、細心の注意を払って危険から遠ざければ大丈夫だろうか。シロは歯を食いしばる思いで決意を固めた。
目を開いたシロは、震える口から言葉を発した。
「分かったわ。モモに相談したいことがあるの。聞いてくれる?」