1-C. 【閑話】噂好きの同期と私(白神モモ視点)
研究室の壁掛けカレンダーを眺めていた。
几帳面な姉の字で予定がギッシリと書き込まれている。彼女の姿を表すように細く美しい文字には見惚れてしまいそうになる。特に風島の部分は何度も読み返した。自然と笑みが溢れてしまう。それだけあそこで過ごした時間は特別だったからだ。
嬉しかったんだ。初めてだったんだよ。初めて私のことを頼ってくれた。姉の力になる事が出来た。たったそれだけの事が本当に嬉しかったんだ。
姉はいつも一人で何かを抱え込んでいる人だった。けれど、最近は様子が特におかしかった。明らかに彼女の細腕では持ちきれない荷物を抱え込んでいた、そんな様子に見えた。
声を掛けても返ってくるのは、大丈夫よ、の言葉だけ。絞り出すような作り笑いを浮かべて言われても、全然安心できなかった。心配で仕方がなかった。
だから、姉といる時は大袈裟に騒ぐようにしていた。辛いことを彼女が少しでも忘れられるように。
だから、アオとの関係を必要以上に煽った。彼女が少しでも夢を見ていられるように。それしか、私に出来ることはなかったから。
そんな姉が初めて私を頼ってくれたんだ。彼女は今も一人で新たな何かを抱え続けている。浮かない表情の彼女を見ればそれくらいわかる。
だけど、前例が出来た。また、私が力になれる時が来るかもしれない。そう願わずにはいられなかった。
***
ぼーっと壁のカレンダーを眺めていると、ドンという音と共に研究室の扉が乱暴に開けられた。
「やっほー! モモ、今暇?」
「アイ。ノックくらいしようよ。君の職場じゃないんだから」
「昼休み中で知り合いしかいないことは分かりきってるんだからいいじゃん」
藍川アイ。総務課の同期で、私たちの同窓でもある。『悪友』と書いて『マブダチ』とも言う。私がたわいも無い話をして馬鹿騒ぎできる相手はアイくらいなものだ。
アイを一言で表すなら暴風だ。突然現れては嵐のように騒ぎ、満足したら勝手に去っていく。心の壁も全部ぶっ壊して懐に入り込んでくる奴だ。姉とも仲良くやっているのは、壁を無理やりこじ開けて内側に入ってくるからだと考えている。嫌がられないのは、押す時と引く時の匙加減が絶妙だからかな。
噂好きで、馬鹿騒ぎが大好きで、派手好きな彼女は、他人から見れば阿呆のように映るだろう。でも、彼女からはどこか『外面』の姉を思わせる所がある。もっとも、姉が演じるのは『優等生』で、アイが演じているのは『道化』なのだが。
彼女曰く、阿呆に見える方が何かと都合が良いらしい。秀でた天才よりも埋もれた凡人の方が人生快適に過ごせるそうだ。達観してるなー。
だから、賢く、優しく、社交性があり、面倒見のよく友人思いの親友。それが本当のアイ。
なんだか私の周りは癖のある人ばかりなんだけど。私しかいないじゃん、純粋無垢で裏表のない人間は。
◇
「あれ、シロはどこいった? クロさんのことで色々と話をしたかったんだけど」
「お姉ちゃんなら中庭で食事中。アオちゃんと手作り弁当パーティーしてるよ」
「弁当? なんだ、ようやくあの二人に進展があったのか」
そうなんだ。昨日から姉は弁当をアオに渡している。ちなみに、練習始めたのは2週間前だ。
2週間だよ! もともと練習なんか不要な技量で、実質心の準備期間にそれだけだよ。なお、練習の成果物は私の胃袋に入り、体重へと変質してる。私が太ったらあの二人のせいだ。
「ようやく。牛の歩みより遅い速さだけどね。でも私の成果なんだよ! 弁当作るように勧めたんだから!」
「うーん。恋仲の発展で思いつくのが手作り弁当って、モモの恋愛偏差値も結構ヤバ目じゃない?」
な、なんだと......。愛読する少女漫画や恋愛小説を参考にしたから間違い無いはずなんだが。確かに実経験は少ないけどさ。
「じゃ、じゃあ、アイだったらどうやってあの二人を進展させるのさ?」
「そうだなー。取り敢えず、二人をホテルに閉じ込める。一夜明かせば何か起こるでしょ?」
密室に若い男女が二人きり。何も起こらない筈はなく、とアイは悪戯めいて笑う。
嗚呼、この人は品が無いんだった。相談する人、間違えましたね。
「でもそうか。シロは暫く戻ってこないんだね。わたしへの伝言だったり、なんかシロから聞いてる?」
「聞いてない。そもそも、なんの話なのか説明してよ」
私の問いに、アイは笑みをもって返す。説明する気はないらしい。姉はアイには頼るのか。なんかモヤモヤする。
「あー。違うって。モモの想像するようなことじゃないから。別に大した話じゃないし」
アイはこうやって、相手の心を読んで先回りする。人の機微に聡いのだ。やはり、阿呆を演じているだけで本当は聡明だよね、君は。
じゃあ聡明な君を少し利用させてもらおうか。
「そう言えば、最近のお姉ちゃんって元気ないんだけど、なんか原因知ってる?」
「シロはなぁ......色々と矢面に立つ立場になりつつあるから、気苦労してるんじゃないかな」
やっぱり、姉は一人で何かを抱え込んでいたよ。
「そうなんだ。私が手助けできることって何かありそう?」
「ないと思う。放置しておきなよ。あの子自身で折り合いつけなきゃいけない問題だし」
「でも......」
「あのさー。姉妹揃ってお互い大好きなのは好ましいけどさ。そろそろ自立したほうがいいと思うよ」
え? 自立? なんで?
「じゃあ、そろそろ戻るよ。シロに伝えておいて。あ、そうだ。クロさんってどんな感じの人なの?」
「へ? なに急に?」
「総務課では有名な人らしいんだけど、私が配属になった時にはもう異動してたからさ。興味あって」
「......アイ、ダメだよ。この国では重婚は認められていないよ。既婚者を狙っちゃダメだからね」
「違うから!」
「そういえば、お姉ちゃんが言ってたっけ。室長がなんか変だって」
ーーねえ、モモ。おかしいと思わない?
姉の言葉が蘇る。
クロは稀にノロケ話をする。奥さんとどこへ行って可愛かったとか、こんな仕草が綺麗だとか。
ーーこの研究室に配属されて半年、ノロケ話を聞かされているけど、話のパターンが少ないのよ。最近は似た話がループしてるの。
ーーほぼ毎日のようにクロ室長は定時退社してるのよ。それなのに、奥様とのエピソードが増えないってなんか変じゃない?
「そんな感じのことをお姉ちゃんが言ってた」
「へー。愛妻家に離婚の危機か。なんか面白そう。お局さんに話ししてくるわ」
そう言うと、いい笑顔でアイは研究室を後にした。
姉の言葉の続きが蘇る。
ーークロ室長の奥様の身に何かあったのかしらね。例えば、病気とか事故とか。ちょっと心配だわ
次話からは本編である第2部に突入、ストーリーは一気に加速していきます。
それでは、引き続きお付き合いいただけますと幸いです。