1-9. 風の噂
会議室を出たシロは、その足で事務棟へ向かった。
研究室の備品を補充しに行こう。......いや、少し足を動かして気持ちの整理をつけよう。
シロの胸には灰色の感情が渦巻いている。このまますぐに研究室へ戻る気にはとてもなれなかった。
◇
日差しの差し込む廊下を歩いていると、正面に見知った派手な女性を見つけた。
「あれ、シロじゃん! 珍しいー。事務棟になんか用?」
「備品の補充に。アイこそ、こんなところで何をしてるの?」
藍川アイ。茶色く染められた長髪を靡かせる彼女は噂好きでお喋りだ。総務課の彼女はシロ達と同期の新人で、同窓の仲になる。友人の少ないシロとモモにとっては、貴重な友人でもある。特に酒好きなモモとは性格含めて非常に相性が良く、2人でコソコソと何かをしていることも多い。本当に何をしているのかしら。
派手な服を好む彼女は、青と白のストライプ柄のシャツに、赤く丈の短いスカートで身を固めている。ある程度服装に自由が与えられている職場とは言え、自由過ぎはしないだろうか。
「研究棟にちょっと用事が。急いでるからまた今度ね!」
「ええ。また今度」
去り際に彼女は小声で呟いた。
「30分後に、例の場所で」
***
事務棟の最上階の廊下をシロは歩く。この辺りは滅多に人が通らず、ましてこれから行く最奥の女子更衣室などは人を見かけたことは一度もない。
その更衣室の扉を開け、シロは中に入る。
「アイ、おまたせ」
ん、と不明瞭な返事する彼女は鏡の前でメイクを直している。
この更衣室は、2人で内緒話をする際に利用している。『例の場所』が合図だ。尤も、話題はアイの愚痴が主だが。
「シロ。さっきの会議で大暴れしたんだって? 研究棟で噂になってたよ」
いきなり触れられたくない話題になり、シロは押し黙る。大暴れはしていないのだけれど。
「まあいいや。でも気をつけなよ。これからもっと風当たり強くなるから」
出る杭は打たれる。彼女はそう言っているのだろう。
「ありがとう。ちなみに、どんな噂が流れてるの?」
「いやー、聞かない方がいいと思う。それより、酷い顔してるよ。大丈夫?」
「心配してくれてありがとう。大丈夫よ」
「分かった、そういうことにしておく。辛くなったら溜め込まずに吐き出しにおいで」
アイが保つ距離感は純粋にありがたく感じた。これも彼女の優しさだろう。シロは内心で感謝する。
「そうそう。また紹介してくれって言われてるんだけどどうする? 断ればいい?」
アイ曰く、妬みだけではなく、好意もいただいてるそうだ。有難い話ではあるが、私には興味がない。
「ごめんね、お願いしていいかな?」
「おっけー。モモのことも紹介しろって言われてるんだけど......そっちは本人に聞くか」
「モモも興味ないと思うわ。そっちも断ってもらっていい?」
「いや、シロが決める話じゃないでしょ。直接確認して決めるよ」
「でも......」
だって、モモは......。
「んー、伝わらないか。じゃあさ、今はモモと一緒に住んでるんでしょ? 1人暮らしする気はないの?」
「え?」
今日のアイはよく話題が飛ぶ。でも、どうして急にそんなことを言うの? 私たちは姉妹なんだから......。
「ごめんって、そんな顔しないでって。変な話をしたよね。今のは忘れて!」
「うん」
「よし。今度モモを入れて女子会しよう! パーと騒げば少しは気分が良くなるって」
◇
「おっと、喋り過ぎてこんな時間だわ。そろそろ戻らないと」
「そうね、私もそろそろ戻らないと」
「あ、一つ聞くの忘れてた。昨日の深夜、クロさんが大臣室に出入りするのを見かけた人がいるんだけど、なんか聞いてる?」
クロ室長? 本当に今日のアイは話題があっちこっちに飛ぶわね。
「見間違えじゃないの? 昨日は定時で帰ったはずよ」
「やっぱそうだよね。うちの課に居た頃から奥さんのために定時退社心がけてる人なのに、深夜まで魔法省にいるのはおかしいってちょっと噂になってて」
「酷い言い草だけど、否定できないわね。昨日は間違いなく帰ってるはずよ」
そう、確かに昨日は定時に帰ったわ。私が仕事を頑張っているのに先に帰るなんてズルい、とモモが怒っていたもの。あの子の場合は、自分のやるべき仕事を放置していたのが悪いのだけれど。
「分かった。じゃあ噂は否定しておくよ。それじゃあ、お開きにしようか」
「待って。私からお願いしたいことがあるんだけどーー」
***
シロは研究室の扉を開けると、その足でクロの席を目指した。
「シロ、遅かったな。どこで油を売っていたんだ?」
「すみません。備品を探すのに手間取ってしまって」
そう言って手元にある紙の束を見せる。クロの表情には納得の色が窺える。
「そうか、おつかれ」
「先程の会議では勝手な事をしてしまい申し訳ございませんでした」
謝罪の言葉と共に深く頭を下げた。優しげな溜息が降ってきた事にシロは許された事を察する。
「ああ。説明が不足していた俺も悪かった。だが、2度目はないぞ。心しておけ」
クロは手元の資料を差し出しながら、言葉を重ねる。
「次の仕事だ。大臣直々の依頼だからしっかりやれよ」
「これは......随分と遠出になりますね。私1人でしょうか?」
「いや、モモとアオの3人で行ってこい」
「分かりました」
次の仕事へと気持ちが切り替わったことを感じたシロは、気になっていた事を口にする。
「そういえば、来月は夫婦の日があるそうですね。クロ室長は奥様のために何かされるのですか? 昨日も早くに帰宅されたようですが」
「いや、まだ考えてない。昨日はこの町のレストランで妻に喜んでもらえたからな。同じ方向性で考えたいかな」
「お熱いようで何よりです。では、出張の準備を進めてきますね」
「ああ、しっかり頼む」
シロは微笑むと、クロに背を向け自席まで歩き出した。
上手く笑えていただろうか。口に出さなかった疑問を反芻する。
クロ室長の言っていたレストラン。この辺りでは一番の飲食店になる。もちろん、私も知っている。
何なら、昨夜帰宅途中に訪れている。だが、店は閉まっていた。材料が確保できず、臨時休業だったそうだ。事前告知はなく、店まで足を運ばなければ知らない事実だ。一緒にいて愚痴るモモを宥めながら別の店を探し歩いたのだから、私の記憶違いということもないだろう。
クロ室長。
貴方は昨夜どこで何をしていたのですか? 深夜の魔法省で貴方の姿を見た者がいたそうですよ。
貴方は何故嘘をついたのですか? やましい事がなければ、まったく必要のない嘘でしたよね。
その些細な疑問は、シロの心に僅かな染みを作る。