田中のゴールデンウィーク ~大人の階段のぼる~
初体験は緊張するものです。
平成と令和をまたぐ、2019年春の大型連休。それは時の超越を求めし者どもの成れ果て、泡沫の過去を謳う者どもの墓石、あるいは途方もない未来を探索せし者どもの航海の始まり。
そんな歴史的瞬間に、田中は子供部屋おじさんと言う不名誉をかこっていた。子供部屋おじさんとは何と的確な言葉であろうか。田中の現状を表すのにこれ以上の言葉は無いだろう。田中の私室には小学校入学の際に祖父母から贈られた木製の学習机が鎮座している。洋服ダンスや学習机にベタベタと貼られたアニメキャラクターのシールは日に焼け色褪せているが、それでもなおその存在感を失っていない。ただ机上のラップトップPCやビジネス書たちが、かろうじて成人の部屋であることを主張しているのみである。
「子供部屋おじさんか……。もうアラサーだし、私にぴったりの言葉だなぁ……。」
大型連休初日の深夜、田中は小説家になろうを閲覧しつつ、一人呟いた。近頃、ほうれい線が少し深くなり、瞼が重くなってきているようで、加齢を感じはじめている。
「人は、何もしなくても年だけはとるんだよね。あぁ嫌だ嫌だ。体だけは中年になっていくのに、内面はお子様のまんま。」
ほうれい線を、何度も擦りながら呟く。そういえば最近、独り言も多くなってきたなと思い、誰に見られている訳でも無いのに咳払いをして誤魔化す振りをした。
田中の同級生は結婚をしたり、子供ができたりと、どんどんと大人になっている。一方の田中は、と言えば、結婚への道筋など一かけらも見えず、実家にパラサイトである。料理も洗濯もしないお子様のまま、年齢だけを重ねていっている。
「大人にならないとなぁ……。」
大人になるにはどうしたら良いんだろうか。田中は何となく思案してみることにした。この連休中に少し大人に成ろう。田中にそんな薄っぺらな野心が芽生えていた。
はてさて、大人な行動とはなんだろうか。
育児? どこかで子供を拾ってくる? そんなことは有り得ない。有ってはいけない。
結婚? どこかで配偶者を拾ってくる? そんなことは有り得ない。許されるはずがない。
出世? どこかで部下を拾ってくる? そんなことは有り得ない。そもそも連休中に仕事などしたくない。
飲酒? どこかでお酒を拾ってくる? 別に拾わなくても買える。そもそも時々、嗜んでいる。
喫煙? どこかでタバコを拾ってくる? 別に拾わなくても買える。しかし、買ったことも吸ったことも無い。
「なるほど。タバコを吸ってみようかしら。」
田中はそう思い立つと、近所のコンビニに足を向けた。近所のコンビニは夜になると若者がたむろするため、普段は利用しない。ただ、いまこの一瞬の機会を逃せば二度とタバコを吸う機会が無いだろうと思われた。自動販売機の利用も考えたが、タスポとやらを持っていない。こういう時にインターネットの情報は有用である。お子様田中でもタバコの買い方を知ることができる。
田中は寝静まった深夜の住宅街を抜け、国道沿いのコンビニへと軽やかな足取りで向かった。田中の気持ちは妙に高揚していた。コンビニへの一歩一歩が大人へのステップであるように思われた。深夜にも関わらずひっきりなしに走る自動車のヘッドライトに照らされながら、笑みがこぼれるのを抑えコンビニに到着した。案の定、駐車場には若者たちがたむろしていた。田中は若者たちと目を合わせないよう細心の注意を払いながら入り口を目指す。目があえば、因縁を付けられて金銭を巻き上げられる。そんな妄想めいた恐怖を抱きながらも、足早に若者たちをすり抜け無事に入店を果たした。そして品物を選ぶふりをしながらチラリとタバココーナーに目をやった。お目当ての銘柄は決まっている。メビウスだ。同僚が愛飲しているから、ただそれだけの理由で銘柄を決めた。喫煙所が屋外に移設されても、禁煙しないのだから、相当に美味しい(?)のだろうと考えたのだ。
しかしここで田中に衝撃が走った。なんとメビウスと書かれた箱が何種類も並んでいるのだ。メビウスはメビウスであってメビウスでは無かったのか。タバココーナーに居並ぶメビウスたちは、さながらメビウスの輪のように田中を思考の無限回廊に連れ込もうとしていた。
だが、今日の田中はこれまでのお子様田中とは違う。大人への階段を上りだした田中は、冷静にスマートホンを取り出すと、メビウスの銘柄を調べ始めた。初心者は、タールおよびニコチンの量が少ないものがお勧めであるとの知識をもとに銘柄を選定する。そうしてメビウス・ワンと言う銘柄にたどり着いた。
ライターと携帯灰皿を陳列棚からとると、堂々とレジに向かう。ここでビクビクして店員に、いい年して初めてタバコを吸う変な奴などと思われたく無かったのだ。そうして、レジにたどり着いた田中は平然を装ってタバコを注文した。
「メビウス・ワンを1つ下さい。」
深夜の店員は気だるげに返事を返してきた。
「ハードとソフトどっちっすか?」
田中にまたもや衝撃が走った。ハードとソフトとは一体なんのことなのか。ハードが無いとソフトは起動せず、ソフトがないとハードはただの箱なのではないか。両方買うべきなのか。ここでスマートホンを出して調べだすわけにもいかない。わからないが、とりあえずハードから買うべきだろう。ソフトはネットでダウンロード販売している可能性もある。家に帰ってダウンロードすればよいのだ。まずはハードが無ければ始まらない。
「え、えっと、あの、は、ハードで――。」
少しの思案のあと、動揺を隠しきれないままにハードを注文した。
「年齢確認おねっしゃーす。」
レジの年齢確認画面をタッチするのは予習済みである。迷うことなく”はい”をタッチする。年齢確認書類の提示をお願いされたいところだが、もはやアラサーの田中には望むべくもない。時の流れは常に残酷である。
「ありあっしたー。」
レジ裏から取り出されたタバコを受け取り会計を済ませると、店員の気だるげな言葉に背中を押されて店を後にした。帰りも勿論、若者たちと目を合わせないように細心の注意を払った。
ついに念願のタバコを手に入れた。何がハードなのか理解が及んでいないが、とにかく田中はタバコを手に入れたのだ。前々からタバコの箱はとてもデザイン性が良いと感じている。様々種類があるが全てが何となくオシャレなのだから不思議である。ちょっとしたアクセサリーの様で、何となく着飾っているような気分になる。
タバコを手に入れ上機嫌の田中は、近くの公園のベンチに座ってタバコを取り出した。ラッピングを剥がし一本の煙草を口に咥える。ライターに火を点け、恐る恐るタバコの先端に近づけていく。
人生初の喫煙である。副流煙は散々吸ってきた田中ではあるが主流煙を吸い込むのは初めてである。タバコの先端に火を点けて、まずは口いっぱいに空気を頬張ってみた。そしてゆっくりと吐き出す。
「けむい――。」
当たり前の感想だがけむい。そして苦い。これを肺に入れるのかと思うと、気が滅入る。オシャレな箱からタバコを取り出したときの高揚感が一気に冷めていく。それと同時に頭も冷静な働きを取り戻してきた。
これは春の大型連休の初日の深夜にやるべきことなのか。そもそも喫煙したところで、おじさん度合いが増すだけではないだろうか。そうであれば子供部屋おじさん問題の解決にはならない。むしろ、より深刻化するだけだ。
そも、解決へのアプローチが間違っていたのだ。大人になるべきは自分ではなく部屋なのだ。部屋を年相応のものに模様がえすべきなのだ。もしくはさっさと自立し、独り暮らしを始めるかである。
なんと無駄なことに心踊らせたのかと、深夜の公園で悔いていると、人生で三度目の職務質問に合い、田中は失意のうちに帰宅したのであった。ただタバコの箱は戦利品として学習机の上で異彩を放つこととなった。
喫煙は二十歳になってから。
若人たちはココアシガレットでも食べてなさい。