北のはずれで終わりの続きを4
太宰治が津軽へ旅に出たのは、一九四四年(昭和十九)五月十二日のことだ。上野発の夜行列車で青森に向かった太宰は、到着後、知り合いのもとを順繰りに訪ねて行った。
「ちょうど今ごろなんですよ。太宰が津軽へ取材に来たのは」
「そうなのか。この時期の津軽は一斉に花が咲くからね。いい季節だ」
桜に梅、林檎の花……可憐な花があちらこちらで咲き誇る五月は、津軽半島が最も華やぐ季節だ。開花時期がGWと重なることもあり、花見客であちこち賑わう。一番有名なのは、弘前公園の桜祭りだろう。満開の時期はもちろん、散り際に弘前城のお堀が薄桃色の花筏で埋め尽くされる光景は、他ではなかなか見られない。
「太宰は青森に到着した途端、東北の寒さにやられてしまったのだそうです。でも、この頃はすごく温かいので、凍えそうになったと語る太宰に、あまり共感はできませんね?」
「確かに。少し汗ばむくらいだ」
ポツポツと黒神と話をしながら、竜飛岬から海岸沿いに沿って津軽半島を南下する。
移動手段はもちろん徒歩ではない。なんと黒神の頭の上に乗せてもらった。
フサフサ、ゴワゴワした毛をお尻の下に敷いて、黒々とした角に掴まって行く。黒神が立ち上がると、目眩がするほどの高さだ。しかし、上に乗っている私たちを気遣ってか、黒神はそろりそろりと慎重に歩いてくれるので、それほど揺れは気にならなかった。
当たり前だが、そんな私たちの姿は普通の人間には見えない。
眼下に民家や車が走っているのを見下ろしながら行くのは、なかなかに気分がよかった。
それは私だけではなかったようだ。
「うわあ。モジャモジャだ~! すごいよ、髪の毛の中を泳いでるみたいだ!」
「五月蠅いわね、駄犬! アンタ、少しくらい黙ってなさいよ!」
「こら、ふたりとも! 喧嘩をするな……!」
クロは楽しくて仕方がないらしい。黒神の髪の毛を全身に巻き付けて大笑いしている。それに苛立ったにゃあさんが鋭い爪を見せるものだから、万が一にでも黒神を傷つけたらいけないと水明が顔色をなくしている。黒神の機嫌を損ねたらと心配なのだろう。しかし、焦っているのは水明ばかりで、黒神は擽ったそうに笑うくらいで怒る気配がまるでない。
「あの、とても意外でした」
「なにがだい?」
私が声をかけると、黒神は僅かに顔を上げた。そのせいで、頭の上からずり落ちそうになってしまい、慌てて角にしがみつくと「ごめんごめん」と顔の位置を戻してくれた。
「あ、ありがとうございます。実は私、ここに到着するまでに黒神と赤神の伝説を調べてきたんですよ。秋田側に伝わっているものも含めて色々! でも、そのどれを見ても、黒神ってとても怒りやすい神様のように感じたので」
民話や伝説というものは、場所によって話の流れや設定が変わることがままある。語り部の立ち位置に因るのだろうが、かの神が関わる伝説では、必ずと言って黒神は粗野で短慮、力に頼る神であると伝えられていた。武力の黒神、芸能の赤神という対比を見せるための設定だろうが、黒神が思慮深かったり、心優しい神であるという〝キャラづけ〟をされたものはなかったのだ。
「だから、すごく驚いてます。とっても穏やかで話しやすくて」
すると、黒神は肩を揺らして楽しげに笑った。
「ああ、確かにそうだねえ。僕は伝説上では暴れん坊だものね。そんな神の相手をしなくちゃならないと思ってきたのなら、きっと緊張しただろうね。大変だったろう。神というものは理不尽で身勝手極まりないものだ。あまり近づきたいものではないし」
自分のことであるはずなのに、まるで他人事のように語った黒神は、車を踏み潰さないようにそっと国道を跨ぐと、突然、こんなことを私に訊いてきた。
「そうだ、太宰治という作家だが、君にとって彼はどんな人間だい?」
「……私にとって、ですか?」
「そうだよ。ああ、まさか君は、生きている太宰と知り合いで、彼の人となりを知っているなんて言わないだろうね?」
「それはありません! 随分前に亡くなった作家さんですから」
私はううん、と少しだけ考えると、慎重に言葉を選びながら言った。
「会ったことのない人……それも有名人を語ることは、すごく難しいですよね。どうしても、その人が持つ逸話や……作家であれば作品のフィルターを通して見てしまう。実際に会うことができない以上、私がどう言葉を取り繕おうとも、それは想像の域を出ません。その部分は神様と同じかも知れませんね」
そして、太宰治という人物は特に難しいとも思う。
彼は強烈な作品をいくつか発表しているが、中でも『人間失格』は際だって印象的だ。
青森の良家に生まれた主人公。恵まれた環境にいたはずなのに、彼は話が進むにつれて、まるで坂を転げ落ちていくかのように、悲惨な人生を送ることになる。
生々しく描かれる主人公の葛藤、内情は、読者を否応なく引きずり込む。読後に感じる名状しがたい浮遊感や、見てはいけないものを見てしまったような罪悪感。それと少しばかりの興奮。太宰の文章はいとも簡単に読者の心に入り込み、酩酊感を与えてくれる。
そして『人間失格』には、太宰治自身の経験からくるのであろう描写が含まれている。
人によっては、この作品を「私小説」……近代小説によく見られた、作者自身の経験をそのまま書かれた作品だと思っている人もいるが、『人間失格』には虚構が多分に含まれているので、決して「私小説」とは言えない。しかし、虚構と現実が絶妙に混じり合ったこの作品は、読者にどうしてもこういう印象を与えるのだ。
太宰治は〝人間失格〟であった、と。
「太宰にあまり思い入れのない人は、きっと彼はろくでもない人間だったと評価するんだと思います。まあ、実際に入水自殺を何度もしたり、愛人を作ったり、薬に溺れたり……私たちの感覚からすれば、普通じゃない生き方をしていたんですけどね。でも私は、この『津軽』に描かれている太宰がすごく好きで」
『人間失格』とは違い、『津軽』は限りなく「私小説」に近い作品だろう。
執筆依頼を受けた太宰は、ひとり青森を訪れ、自身とゆかりのある地を巡っていく。
そこに含まれる〝虚構〟は少ない。発表当時、読者にこの作品は「紀行文」であると受け入れられていただろう。私がそう言わないのは、後々の研究で作られた部分があったことが明らかになっているからだ。それを踏まえたとしても、『津軽』に登場する〝私〟は、太宰本人に近い人物像を持っているのではないかと私は考えている。
当時の日本は戦時下で、東京などは、配給制で食糧事情がよろしくなかった。田舎へ押しかけて食事を集る者もいたらしく、そんな彼らを揶揄して太宰はこう語る。
『私は津軽へ、食べものをあさりに来たのではない。姿こそ、むらさき色の乞食にも似てゐるが、私は真理と愛情の乞食だ、白米の乞食ではない!』
武士は食わねど高楊枝という姿勢を『馬鹿々々しい痩せ我慢の姿を滑稽に思ひながらも愛してゐるのである』と語る太宰はユーモラスで、少し見栄っ張りだ。決して素直になれない部分が滲み出ていて好ましい。
「行く先々でなにはともあれお酒を飲もうとするところとか、素朴な津軽の人たちと、どうしても斜に構えた考えをしてしまう太宰の対比が面白くって。母親だと思っていた人との三十年振りの再会のシーンは、じんと沁みて。初めて読んだ時は、泣いてしまいました。『津軽』には飾らない太宰の姿が描かれているように思えます」
内容を思い出すだけで胸が熱くなる。私は、笑みを浮かべて続けた。
「私にとっての太宰はそういう人です。当時の時代背景を鑑みると、自由に旅行なんてできなかったでしょうから、読者を楽しませようとする意図が『津軽』からは感じられて、作家としても優れた人だったのだなと思います」
ここまで一気に話し終えると、私はふうとひとつ息を吐いた。
そして途端に不安に見舞われる。先述した通り、太宰を語るのはとても難しいのだ。胸の内にはもっと色んなものが渦巻いているのだが、どうにも筆舌に尽くしがたい。
――少しでも伝わっていたらいいんだけど。
ちらりと黒神の様子を窺う。無言のまま私の話に耳を傾けていたかの神は「そうか」とひとつ言葉を零すと、ぽつんと独り言のように言った。
「大勢が思う太宰と、君が思う太宰は違っているのだね」
そして愉快そうに肩を揺らした。ぐらぐらと体が揺れて、必死に角にしがみつく。「ごめんごめん」と笑いを引っ込めた黒神は、とても機嫌がよさそうだ。
「非常に興味深いね。もっとその作家の話を聞かせてくれ」
「……! もちろんです!」
――やった!
顔がニヤける。胸が心地よく高鳴り、幸せな気持ちでいっぱいになる。
黒神と過ごしている今この瞬間は、私が求めて止まなかった読書好きの友人とのひとときに限りなく近く思える。相手は友人ではなく神様だし、太宰のことをなにひとつ知らないけれど、好きなものを思う存分語れる楽しさったらない。
ああ、次はなにを話そうか。すると、小高い山が視界に入る。天辺には石碑と――先行して準備をお願いしていた唐糸御前の姿があった。
そこはJR蟹田駅よりほど近いところにある観瀾山だ。『津軽』の作中で太宰が花見に行った場所で、当時と比べるとあまり桜は残っておらず、松の木が目立つ。眼下に広がっているのは陸奥湾だ。晴れていれば、遠く下北半島を望むことができる。
海からの強い潮風が吹き付けるそこには、太宰の文学碑がある。『かれは人を喜ばせるのがなによりも好きであった!』という『正義と微笑』の一節が彫られた石碑は、太宰の友人が陣頭指揮を執って設置したものだ。
「黒神! お話をする前に、まずはあそこへ行きましょう。美味しい青森の地酒に、太宰が食べたお弁当を再現したものを用意してあります。今の時期、トゲクリガニは絶品ですよ! 春の津軽は美味しいものだらけです!」
「おお、おお。そうだね。それは楽しみだな」
「もちろん、太宰の話もしますよ。たっぷり蟹田のことを褒めた後『いっぱい褒めたから悪口を言っても許される』とか言って貶しまくった話とか、宴席でうっかり先輩作家の悪口を言って、空気を悪くしたエピソードとかもありますし」
「なんだ、急にどうしたんだその太宰治とやらは」
「フフフ。面白い逸話がたくさんある人なんです。私の推し作家の話、とことん付き合ってもらいますからね……!」
「ちょっと不安になってきたな?」
黒神とクスクス笑いながら観瀾山へ向かう。唐糸御前に手を振って、このひとときが少しでもかの神の慰めになればいいのだけれど、と心の中で願った。
トゲクリガニは青森の旬の味だ。毛ガニと同じクリガニ科の仲間で、ほろほろとした繊細な身はほどよく甘く、味噌は恐ろしく濃厚で、四月下旬から五月下旬までの約一ヶ月間、陸奥湾で揚がる春の味。ほぼ県内で消費されるために、他ではなかなか味わえない。
青森では、昔からこのカニを「花見ガニ」やら「桜ガニ」やらと呼んで親しんできた。
今日用意したのは、そんなトゲクリガニを含めた花見弁当。実際に『津軽』の作中で、太宰の友人であるN君の奥さんが作った料理が詰めてある。カニの他に、茹でたシャコやイカの煮物など……春の津軽の美味たっぷりのお弁当は見るだけで食欲をそそる。
ちょうど、昼頃に差し掛かっていたのもあって、私たちは陸奥湾を見下ろせる展望所にゴザを敷くと、そこでお弁当を広げた。
「太宰は『もぎたての果実のやうに新鮮な軽い味』と評して、トゲクリガニを三つも四つも食べたそうですよ。それと太宰に因むなら、お酒は外せません! カニに合うのはやっぱり清酒ですよね。ねえ、唐糸御前」
「ええ。もちろん、カニに合うお酒を用意いたしました。『田酒』ですわね。マスカットを思わせるフルーティーな香りに、口当たりのよさ、ほんのり感じる酸味、苦味が最高にカニに合いますのよ。わたくしも好きなお酒です」
観瀾山に寄りかかるように顔を覗かせている黒神に、大きなボウルいっぱいに解したカニの身と、これまた結構なサイズの木の桶に注いだ酒を渡す。
黒神は指先でちんまりとカニ入りのボウルを摘まむと、豪快に口の中に放り込み、ぐいと日本酒を流し込んだ。途端に、ふんわりと表情を緩める。
「……美味い!」
「でしょう!」
「ああ、ああ。これはいいものだな。本当にいいものだ」
「フフ、シャコも剥きましょう。お刺身もありますよ! あ、でもお醤油がない……」
どうやら持ってくるのを忘れたようだ。サッと血の気が引いていく。するとクロが買い出しを申し出てくれた。
「じゃあ、オイラが水明と買いに行ってくるよ! 『クロは激怒した! 必ず、かの邪知暴虐の醤油を買ってこねばと決意した!』なんちゃってー!」
「駄犬、邪知暴虐の醤油ってなによ……」
「クロ お前、いつの間に『走れメロス』なんて読んだんだ」
「フフフ、オイラだって進歩しているのさ!」
にゃあさんは呆れたようにクロを見つめ、驚いた顔をした水明は、クロの頭を撫でてやっている。激しく尻尾を振っているクロは、上手いこと言ったと得意げだ。
――『走れメロス』……!
かの有名な冒頭をもじった台詞に、私の中でピタリとピースが嵌まる。
私は黒神へ向き合うと、内から溢れる興奮を抑えきれぬまま言った。
「あの、あのですね。『走れメロス』っていうと、人質にした友を助けるために主人公メロスが奔走する話なんですが! 面白い話があるんですよ」
「ふん? それはなんだい?」
「ええとですね。太宰の仲良しの作家さんに、檀一雄って人がいるんですが。ある日、その人と一緒に熱海で遊び回った太宰は、支払いに充てるはずの費用を使い込んでしまったのだそうです。それで、壇さんを人質として熱海に置き、お金を工面するためにひとりで東京に戻ったらしいんですが」
「へえ、まるで物語をなぞっているようだね」
「ここからが面白いところでして。太宰はいつまで経っても帰ってこなかったのだそうです。人質にされた壇さんが、料理屋の主人と一緒に東京に行くと、太宰ってば、縁側でのんびり将棋を指してたらしいんですよ!」
「なんだい、それ。潔いくらいに見捨てているじゃないか。友人を」
「そうなんですよ! 作中では、友人のためにメロスを滅茶苦茶走らせた癖に、太宰自身は全然友人のためにちっとも走らなかったんです! 壇さんに見つかった時に言った『待つ身が辛いかね。待たせる身が辛いかね』って結構な名言だと思いませんか!」
「いや、君。それっていい話かな……」
「だって、作品と作家本人は違うってこれ以上ない証拠じゃないですか! 友情に燃えて、全裸で駆け抜けるメロスは素敵ですけど、太宰自身とはまったく異なるもので。それってすごく当たり前のことなんですけど、身を以て証明しちゃう太宰って最高というか」
夢中になって語っていると、生暖かい海風のようなものが頬を撫でていった。見ると、黒神が肩を揺らして笑っている。その瞬間、ハッと正気に戻る。
――私ってば、一体なにを語って……!
どうやら調子に乗り過ぎたらしい。自分でもよくわからない話に発展している。
なんとなく恥ずかしくなって、咳払いをして居住まいを正す。
「ご、ごめんなさい。興奮してしまいました……」
黒神は口もとを手で隠したまま、クスクス笑いながら言った。
「別にいいんだ。彼のことを教えてくれと言ったのは、この僕だしね。それに、ひとりの作家を語るのに、それほどまでに情熱を傾けられるというのは素晴らしいことだし」
そして片腕を観瀾山へかけると、どこかリラックスした様子で私を見つめる。
「もっと話してくれ。どうも、その作家は色々とやらかしているようじゃないか。益々興味が湧いてきた」
「うう……。本当ですか? これ、ちゃんと楽しんで頂けてます?」
「もちろんさ!」
黒神は暁色の瞳をにんまり細めると、大きな指先で私の頭を撫でた。
「流石は東雲の娘だね。美味い酒に、楽しい話。心地いい時間をくれる」
「そうですか……じゃあ」
黒神の手付きを擽ったく思いつつ、私は彼に、二杯目のお酒を差し出しながら言った。
「予定通りにおもてなしをさせてもらいますね。一通り食べたら移動しましょう。せっかくですからカヤキとか干鱈とかも味わいたいですよね! ああ、岩木山が綺麗に見える場所を探しに行くのもいいですね。そう言えば、岩木山の右肩が低いのは、赤神との決闘時に、黒神を応援していた神々が足踏みしたせいだって、本当ですか?」
「おや、よく知っているね?」
「わあ、本当なんですね。あの、よかったらその時の話を聞かせてくれませんか。さっき、自分のことも知ってくれっておっしゃってましたよね? 私、それもすごく気になっていて。……駄目でしょうか?」
上目遣いで訊ねると、黒神はパチパチと目を瞬いて破顔した。
「ああ! お安いご用だ。なんだか、いい一日になりそうな気がするよ。きっと、今日の終わりには僕の心は春の空みたいに晴れているはずさ」
嬉しい言葉に、胸がいっぱいになる。私は大きく頷くと――黒神に食べてもらおうと、せっせとシャコの殻を剥き、太宰の有り余るほどの愉快なエピソードを語っていった。




