北のはずれで終わりの続きを3
その後、善は急げとぬらりひょんと唐糸御前に送り出された私たちは、地獄を経由して、一路青森県竜飛岬へと向かった。
青森に到着した時には晴れていた空も、竜飛岬に近づくにつれて雲がみるみるうちに厚くなり、唸るような風の音が辺りに満ちるようになると、どうにも不安が募ってくる。
竜飛港へ続く道を歩きながら、私はどんより曇った空に思わずため息を零した。
「また神様が相手かあ……。大丈夫かな。うっ、夜万加加智のトラウマが」
水明は思案気に眉を顰めると、やれやれと首を振った。
「そんな風に思うなら、気軽に引き受けなければよかったんだ。まあ、ぬらりひょん曰く、人へ害を為す類いの神ではないそうだから、それだけが救いだな」
すると、隣を歩いていたクロとにゃあさんが会話に交ざってきた。
「気分次第で強風吹かせるのって、充分害を為してる気がするけどね!」
「人を呪うタイプじゃないってだけでしょうね。厄介なことには変わりないわ。機嫌を損ねた途端に、突風が巻き起こって、辺り一帯が壊滅なんて洒落にならないもの。まったくもう、本当に面倒なことに巻き込んでくれたわね。忌々しい」
なんとも不吉なにゃあさんの発言に思わず顔が引き攣る。すると、しずしずと後ろを歩いていた唐糸御前が、更にチクリと釘を刺した。
「そうなった場合は皆様に被害の補填をして頂くだけですわ。お気をつけあそばせ」
「ひっ……! そ、損害保険的なのって入ってたっけ」
「幽世にそんなものがあるわけないだろう。馬鹿」
「うっ……! 今ごろになって後悔の念が」
さあっと青ざめていると、ポンと誰かの手が私の頭に乗った。見上げると、そこにはいつも通りに無表情な水明の顔。
「ここまで来てしまった以上はやるしかないだろう。できる限りのフォローはするから」
「……そ、そうだよね。やるしかないよね!」
不安だからと立ち止まっていてはなにも進まない。なにより、東雲さんの本体の修繕にも影響が出ているのだから、娘の私がやらない理由はない!
――ようし、頑張ろう!
「フフフ。期待しておりますわ」
にこりと笑みを深めた唐糸御前は、市女笠から垂れたからむしを翻すと、スタスタと私たちを置いて行ってしまった。水明たちと目線を交わし、私たちも後に続く。そうやって、暴風吹き荒れる竜飛岬へと足を踏み入れた。
絶対に黒神を鎮めてやる! そんな決意と共に。
黒神がいたのは、竜飛漁港よりも更に奥にある、帯島と呼ばれる岩島のすぐそばだった。
かの源義経が帯を解いて北海道へ渡ったという伝説に因んで名付けられた小島は無人島で、それに寄りかかるように巨大な大男が座っているのが見えた時は、流石に肝が冷えた。
そして、私たちは意を決してかの神へと近づき――冒頭のプレゼンをしたのだ。
それは嘆き続ける神を慰めるための計画。冷たい北の海に身を浸して、昏い曇天の下にいたのではいつまで経っても心は晴れない。情緒が不安定な時に必要なのは気分転換だ。
新しい刺激、楽しい思い出、それと美味しいご飯。
それらが揃った完璧なプラン! ……そう思っての提案だったのだが――。
結果はご存知の通りである。私のもくろみは悉く外れてしまった。
荒れ狂う鈍色の海の前で、呆然と立ち尽くす。
「どうしよう……代案がない! 『津軽』しか頭になかった!」
「考えなしにもほどがあるだろう!」
「えっへへへへ。『津軽』のご当地巡りができるかもって考えたら、テンション上がっちゃってさあ。失敗する未来なんて欠片も想像してなかったよね……」
「ポンコツにもほどがあるな……」
「一匹丸々鯛を旅館の人に預けて、姿焼きにして欲しいって重ね重ね頼むものの、切り身の焼き魚になって戻ってくるイベントとか楽しそうだなって思ってた!」
「マニアック過ぎないか。流石に」
水明の鋭い突っ込みに、私はヘラヘラ笑うと、すぐにシュンと肩を落とした。
「あら。期待外れでしたかしら……」
……ああ! 唐糸御前の言葉が胸に突き刺さる。
東雲さんがいとも簡単に鎮めたのだという神を目前に、為す術がない。
ポカンと私を見つめている黒神の瞳からは、今もポロポロと大粒の涙が零れ落ちていて、周囲を吹き荒れる風は、今にも私を吹き飛ばしそうなほどだ。
――東雲さんはどうやったんだろう……。
本人に聞ければよかったのだが、出発前に行き会えなかったことが悔やまれる。通信機器をお互いに持っていないので、こういう時はかなり不便だ。
「夏織の計画性のなさを甘く見てたわね……」
「なあなあ。いっぱい泣いたら疲れて寝ちゃうんじゃない? オイラもそうだもん!」
「まあ! どこぞのクソ餓鬼じゃあるまいし。相手は神様ですわよ? そこの犬神さんは考えるのが少し苦手なのかしら?」
「……遠回しに馬鹿って言われているわよ、クロ」
「えっ。そうなの? 黒猫ってばよくわかったね~! すごいや!」
「ちょっと大丈夫? 今のは怒るところよね?」
賑やかに話している皆を尻目に、じっと黒神を見上げる。かの神は、騒いでいる私たちをキョトンと見つめるばかりで、自分からはなにも語ろうとしない。
正直、そんな黒神の姿は、伝説にあるような武力に勝る神だとは思えなかった。
――変な感じ。この神様、想像していたよりも、ずっと優しい目をしている。
黒神の瞳はとても穏やかで、日が沈む前の海岸線のようだ。静かに打ち寄せてくる波音が聞こえてくるようで、私は知らず知らずのうちに、その瞳の色に魅入ってしまった。
「もしかして、君は東雲の娘かい?」
すると、今まで黙っていた黒神がおもむろに口を開いた。
驚きつつも頷くと、かの神は「そうか」と顔を綻ばせた。
私にその大きな顔を近づけると、まじまじと見つめて、ほうと息を吐く。生暖かく、濃厚な潮の匂いを含んだ息が体を撫でて行ったかと思うと、黒神は目尻に皺を作って、凶暴な牙が生えそろった口をにいと引き上げた。
「なるほど、なるほど。確かに話に聞いた通りだ。とても愛らしいね」
「あいっ……」
「東雲が言ってたんだ。自分の娘は目に入れても痛くないほどだと」
「成人した娘を表す台詞ですかそれ!」
「まあ、今から十年以上も前のことだ。当時の君はもっと可愛かったんだろうね」
――な、なにを神様に語ってるんだあの人は……!
羞恥に駆られてワナワナと震えていると、黒神はくすりと笑みを零した。
「もしかして、アレかな。あの時の東雲のように、僕を慰めに来てくれたのかい?」
「……は、はい」
「そうか。確かに、最近はかなり落ち込んでいたからね。皆に迷惑をかけてしまったようだ。申し訳ないことをしたな。だがなあ、こればっかりはどうしようもないんだ」
私は申し訳なさそうに眉を下げた黒神を見て、思わず首を傾げた。
「あなた、本当に黒神ですか? 赤神……じゃないですよね?」
伝説では〝心優しい〟とされているもうひとりの神の名を挙げる。それだけ、黒神の纏う雰囲気や物言いは穏やかなものだった。
「おい、夏織……」
すると水明が焦ったような声を上げた。ハッと我に返る。今のが結構な失言であったと気が付いたのだ。機嫌を損ねたら……というにゃあさんの言葉を思い出して顔色を失う。
しかし、当の黒神はまったく気にする様子もなく、小さく肩を竦めただけだった。
「僕が黒神で間違いないよ。こんな真っ黒けな姿で赤神なんて名乗ったら、皆に笑われてしまうだろう?」
そう言って目を細めた黒神の頬を、透明な涙が流れていく。
その度に、ひゅおうと風は悲鳴のような音を立てて吹きすさぶ。確かに、かの神がこの竜飛岬に風を呼び込んでいる黒神で間違いはないようだ。
――うん。夜万加加智に比べると、なんだか話が通じそうな神様だ。
そのことに心底安堵すると、私は意を決して言った。
「大変失礼しました、黒神。私が、荒ぶるあなたの心を鎮めに来たことは間違いありません。どうか、チャンスをくれませんか」
黒神は私をまじまじと見つめた。小さくしゃくり上げて、涙で濡れた頬を拭う。
そしてどこか嬉しそうに頬を緩めると「そうか」と頷いた。
「君まで僕に付き合ってくれるのかい? 懐かしいなあ。昔、東雲が現れた時のことを思い出すよ。心が塞ぎ込んでどうしようもなかった時、飲むぞって誘ってくれたんだ」
どうやら、東雲さんがお酒で黒神を鎮めたというのは本当だったらしい。
「養父は、それでどうしたんですか?」
「僕をここから連れ出してくれた。フフ、北海道まで行ってね。ご馳走をたんまり食べて、お酒を飲んで……色んな話をしたんだ。その時に、君のことを聞いたんだよ」
「そうですか……」
どうやら、黒神を鎮める方向性としては、私の提案は悪くなかったらしい。
ただ、太宰治の『津軽』を絡めるという致命的な失敗を犯してしまった。冷静になってみると、原作を知らないのに聖地巡礼なんて、確かにつまらな過ぎてあくびが出そうだ。
――どうしよう。一旦、引き返して作戦を練り直した方が……。
ひとり悶々と考えていると、突然、視界に大きな指が入り込んできた。真っ黒で、丸太みたいなサイズの指は、もちろん黒神のものだ。
彼は少し恥ずかしそうに頬を赤らめると、おずおずと言った。
「うん。決めたよ。さっきの提案を呑もうじゃないか」
「えっ……?」
「太宰治という作家は知らないんだけど、とても面白そうだと思ったよ。よかったら案内してくれ。ついでにその作家についても教えてくれると嬉しいな。正直、今も心が押しつぶされそうなくらいに悲しいんだ。気を紛らわせなくちゃと自分でも考えていたのさ」
――どうやら、興味を持ってくれたらしい。
「……黒神って、他の神様からちょっと変わってるって言われませんか?」
「ん? なんだって?」
「いいいい、いや! なんでもありません! ぜひともお願いします!」
――やった! とりあえずは第一段階突破!
両手で、黒神の丸太のような指を掴む。すると、かの神は満足そうに頷くと、ふと遠くを見やった。その愁いを帯びた顔にドキリとする。
「楽しみだな。そうだ、ついでと言ってはなんだが、僕のことも知っておくれよ。伝説に因らない、ありのままの僕を。ねえ、いいだろう?」
大きな暁色の瞳から、ぽろり、大粒の涙が零れる。そしてまた、強い風が吹き荒れた。
「……? はい、喜んで」
「そうか。それは嬉しいな」
――なんだろう。やっぱり変な感じがする。
それは、小さな小さな違和感。パズルのピースがきっちり嵌まらない時のような、もどかしい感覚に首を傾げる。
「決まったのであれば準備を始めましょう。諸々手配をしなければなりません」
「う、うん!」
しかし、その感覚は長くは続かなかった。私は自分の中に沸き起こった微かな変化を不思議に思いつつも、準備を始めた唐糸御前たちのもとへと向かった。




