エピローグ:雪解けの日に
「おう、お帰り……うおっ?」
隣家に岩手だけを残し、ひとりで貸本屋へ戻る。
からりと居間の引き戸を開けた途端、水明に手当を受けていた東雲さんが素っ頓狂な声を上げた。
「……なんでお前が泣いてんだ」
「うるさいよ」
私はぐっと涙を拭うと、グスグス鼻を鳴らしながら窓際に座り込んだ。すかさず、近くにいたにゃあさんを抱きしめる。にゃあさんは一瞬だけ迷惑そうな顔をしたものの、すぐにため息を零して私に身体を預けた。
「みんなお疲れ様。大変だったでしょう」
するとそこに、ナナシがやってきた。手にしたお盆には、いくつか湯呑みが乗っている。ナナシは私の隣に座ると、その中のひとつを渡してきた。
「酒粕が余っていたから勝手に作っちゃった。甘酒、飲むでしょう?」
「ありがと……」
ほわほわと白い湯気を上げている湯呑みを受け取って、ふうふうと息を吹きかける。恐る恐る口をつけるも、あまりにも熱くて慌てて口を離した。
「……うう」
「あらあら。今日の夏織は駄目ねえ」
涙目の私に、ナナシは朗らかに笑いながら頭を優しく撫でてくれた。
「疲れているんだわ。今日はアタシがご飯を作るからゆっくりしていて」
「うん。ナナシも大変だったのに、ごめん」
「いいのよ。アタシがしたくてしてるんだから」
夕飯の支度をしてくるわ、と席を立ったナナシを見送り、またため息を零す。すると、すぐさま足を止めたナナシは「そうだった!」と明るい声を上げた。
「今の夏織に必要なのは、こっちよね。ウフフ、気が利かなくてごめんなさいね?」
そして後片付けをしていた水明の腕を掴むと、無理矢理私の隣に座らせた。
「おい。なにをする」
仏頂面のまま睨みつける水明に、ナナシは茶目っ気たっぷりに笑って言った。
「まあまあ。アンタもいい加減に休みなさいよ」
「こら待て、ナナシ。どうして小僧を夏織の隣に――……むぐう!?」
「アンタねえ、たまには手伝いなさいよ。そんな怪我、かすり傷でしょうが」
「ホッホ、ならば儂も手伝うとするかのう」
「あら、ぬらりひょん! 嬉しいわ~。でも流石に座っていて?」
大人三人が、賑やかに話しながら台所へ消えて行く。すると途端に居間が静かになって、ストーブの上に乗った薬缶の音だけが室内へ響いた。
「……大丈夫か」
すると、ストーブの傍でお腹を見せて眠っているクロを眺めていた水明が、おずおずと声を掛けてきた。私は湯呑みを近くのテーブルに置くと、小さく笑みを零して答える。
「へへ。大丈夫……なのかなあ。わかんない」
にゃあさんの顎を撫でながら、苦し紛れに笑う。
この涙の意味は自分でも理解しているのだ。単純に――羨ましかっただけで。
「お母さんってどんな感じなんだろう。ナナシみたいに優しいのかな」
にゃあさんの後頭部に顔を埋めて、ぽつりと零す。
岩手とお豊さん。泣きながら抱き合うふたりが眩しくて仕方がなくて、気が付けば私まで泣いてしまっていた。ふたりが仲直りできて嬉しいという感情以上に、ないものねだりをする子どもみたいな気持ちが溢れてきて、どうしようもなかったのだ。
すると、黙って私の話を聞いていた水明が呟くように言った。
「俺の母は……優しかったな」
「秋頃に幽世で再会したんだっけ?」
「ああ。ほんの数日だが会えた」
水明はその時のことを思い出しているのか、目を細めて遠くを見つめている。
確か、水明も幼少時に母親と死に別れたはずだ。……ああ、どうしてこうも私たちは母親というものに縁がないのだろう。
「――きっと戻ってくるさ」
すると水明がこんなことを言った。驚いて彼の横顔を見つめると、水明は更に続けた。
「魂は回っているんだろう? いつか……どこかで会える」
私は思わず笑みを零すと、水明の頬を指で突いた。
「君も幽世の考えに染まってきたねえ」
「やめろ」
途端に仏頂面になってしまった水明に苦笑して、庭に視線を戻す。雪が積もった庭はまだまだ冬の様相を呈していて、これっぽっちも春が来そうな感じはしない。
件の予言では、子を産めば春が訪れるということだったけれど――。
「春が遠いね。まだ、なにかあるのかな……」
なんとなく水明の肩に寄りかかる。すると、水明が身を固くしたのがわかった。
「……あ、ごめん。重い?」
「い、いや。別にいい……」
すると水明はなにかを誤魔化すように咳払いをすると、僅かに眉を顰めて言った。
「いつの間にか消えていた産女もどきのこともあるしな。油断はしない方がいいだろう」
そう、岩手とやり合っている間に、あの産女は姿を消していた。あの様子だと、なにを仕掛けてくるかわかったものではない。ぬらりひょんは、緊急に対策を練らねばならないと息巻いていたっけ……。
「それにあの仮面――」
水明は部屋の隅に視線を移した。そこには、岩手が着けられていた般若の面が置かれている。こちらに戻ってきた後、水明は少し調べてみると言っていたが……。
「なにかわかった?」
「詳しいことはわからなかった。ただ、裏に符が貼られていた。祓い屋が式神を作る時に使う符とよく似ている。人間がなんらかの関与をしていることは間違いないようだな」
水明は眉を顰めると、私をじっと見つめた。
「どうにも嫌な予感がする。ひとりで出歩くな。なにかあれば俺を呼べ」
その言葉に、私は何度か瞬きすると――次の瞬間には盛大に噴き出した。
「あっははは! 立場がまるで逆になっちゃった。水明が来た夏頃は、私が君にひとりで出歩くなって言い含めてたのに!」
「……そろそろ一年だ。俺だって変わるさ」
「頼もしくなってくれて、嬉しい限り」
「茶化すな、馬鹿」
クスクスと笑って、にゃあさんを毛に顔を埋める。
「夏織、苦しいわ……」
「ごめん。ちょっとだけ……」
――ああ、顔が熱い。
今の私の顔を見られたら気持ちがバレてしまうかもしれない。それだけは避けたい。
するとその時、どさり、と鈍い音がした。
ぱっと顔を上げて外を見る。どうやら、庭木の上に積もっていた雪が落ちたらしい。
なんとなく予感がして、にゃあさんを解放してガラス戸へ近づく。そしてゆっくりと戸を開けると、庭木の枝先をじっと見つめた。
「どうした?」
「やだ、夏織。温かい空気が逃げるじゃないのよ」
怪訝そうなふたりの声を丸々無視してひたすら目を凝らす。すると、料理の支度をしていたみんなも集まって来て、なんだなんだと騒ぎ始めた。そして私はあるものを見つけると、みんなに向かって笑顔で言った。
「見て……! あそこ! 蕾が膨らんでる!」
「まじか。どこだ夏織」
「あら、素敵だわ。ちょっと、アタシにも見せて!」
「ホッホッホ。主ら、年功序列というものを知っておるかのう……」
「おい、押すな。やめろ。落ちるだろう!」
こんな風に騒いでいると、ふと隣家の方向から赤ん坊の泣き声が聞こえた。
もしや寝ていたのを起こしてしまったかと、全員で顔を見合わす。
私たちはお互いに口を噤むと――。
それでも笑顔のまま、膨らみ始めたばかりの蕾を見つめた。
――ああ、心なしか風も温かい気がする。
屋根からはぽたぽたと雫が滴っている。
この調子でいけば、徐々に雪は溶けて消えてしまうだろう。
長らく続いた幽世の冬――。
件の予言で一波乱あった冬が、ようやく終わりを告げようとしている。
巡り来るは彩り鮮やかな優しい季節。けれど、冬の名残はやや波乱を含んでいて、私の心をどこか不安にさせる。でも――。
「春になったら花見をしようぜ。楽しみだな」
「あら、じゃあ張り切ってお弁当を作らなくちゃね。水明は夏織と場所取りお願いね?」
「幽世で場所取りなんてあるのか……?」
みんながいればきっとなんとかなる、そんな確信めいた予感があったから。
「私、お弁当にはお稲荷さんがいい!」
私は麗らかな季節を想いながら、不安な心を吹き飛ばすように明るく言ったのだった。




