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安達ヶ原の母子6:決着

 居間を片付けて、そこに大きな和紙を広げる。二畳ほどの紙だ。その前には、派手な羽織を脱いだ玉樹さんが座っている。正座して、紙を見つめている玉樹さんの右手は、力なくだらりと垂れ下がっていた。白い開襟シャツから覗く手は爛れてしまっていて、どうやら上手く動かないらしい。先日、クリスマスパーティの時に「利き手は使えない」と言ったことと、普段から右手を羽織りの中にしまい込んでいる理由がわかって眉を顰める。


「ちえ。俺も行きたかったなあ」

「お土産よろしく~」


 それぞれが岩手のもとへ赴く準備を整えると、烏天狗の双子を隣家の手伝いに向かわせた。いよいよ出産が近くなったので男手が必要なのだという。不満顔の銀目に苦笑しつつも、眠いと大あくびをしているにゃあさんを肩に乗せる。水明も護符などを補充してきたようだ。クロと一緒に、どこか緊張した面持ちで玉樹さんを見つめていた。


 すると、玉樹さんは左手で筆を持つと、ぽつりと言った。


「残り滓のすることだ。……出来は保証しかねる」


 そう言って、筆を持つ手に力を籠めた。


 ――その瞬間、じわりと穂先に墨が滲み出てくる。玉樹さんは筆を大きく振るうと、白い紙に穂先を落とした。


 するすると、まるで予めインプットでもされていたかのように、迷いなく筆が紙面で踊る。黒々とした柱、軸が見えてしまっているあばら屋の壁。解体された女の顔が覗く桶。妖しい笑みを湛え、着物がはだけているのも気にせずに人を喰らう鬼婆。


「懐かしいのう。あの頃……あやかしは、こぞってお主のもとへと姿絵を描いて欲しいと集まったものだ。玉樹、お主も寝る間を惜しんであやかしを描いていたな」

「…………」


 しみじみと語るぬらりひょんの言葉は、どうやら玉樹さんの耳に届いていないようだ。彼は一心不乱に筆を動かすと、最後にこう綴った。


『奥州安達原にありし鬼 古歌にもきこゆ』


 すると、不思議なことにその文字だけは紙に吸い込まれていき、まるでなにもなかったかのように消えてしまった。


 玉樹さんは長く息を吐くと、その場に正座した。そして完成した絵を見つめ――。


「黒塚」

 と、呼んだ。


 その瞬間、絵の中にいた鬼婆に変化が現れた。


 妖しげな微笑みを浮かべた顔には、いつの間にか般若の面が装着されている。その手には血が滴る出刃包丁。更には、身体のあちこちに返り血を浴びている。


 それは一瞬だけ身体を震わせると、次の瞬間天を仰ぎ……そして絶叫した。


『あああああっ……。あああああああああああああ!!』


 そして、次の瞬間にはまるで溶けるようにその姿を消してしまった。


「な……なに……?」


 状況がわからずに戸惑う。東雲さんや水明、ぬらりひょんも動けないでいるようだ。

 すると――私たちの中でたったひとり、笑みを浮かべた者がいた。 


「さあて、皆様。花魁道中ならぬ、あやかし道中と参りんしょう」


 それは文車妖妃だ。彼女は艶やかに微笑むとそこにいる全員を見回した。

 その瞬間、甘い匂いが鼻を擽った。甘すぎず、どこか上品な感じがする香りだ。


 ――ああ……藤の花の匂いだ。


 つい最近も嗅いだことのある匂いに、思わず花を探して辺りを見回す。けれども、美しい青紫色の花はどこにも見当たらず、あるのは見事に咲き誇るひとりの遊女だけだ。


「さあさ、皆々様。あちきにもっと寄っておくれなんし。本来、馴染みでもないお人を寄せるのは野暮なことでありんすが、今回は特別。紙に刻まれた哀しい想い、その行く先をあちきが案内いたしんす」


 うっとりと頬を染めた文車妖妃は、長い睫毛に縁取られた瞳を伏せる。視線を紙面に落とすと、どこか哀しげに言った。


「あちきは文に綴られ、けれど想いが叶わなかった人の心の化身でありんす。なにも、紙に託す想いは、恋心ばかりじゃありんせん。友への気遣い、両親への想い、会いたい気持ち、感謝……人は本当に色々な想いを紙に託しおうす」


 すると髪鬼は文車妖妃の言葉に続いた。


「そして人は呪いをも紙に託す。呪詛、怨念、殺意――目を背けたくなるような、薄汚れた感情も紙に乗せるのだ」


 文車妖妃は髪鬼を優しく見つめると、ぽろりと一粒の涙を零して言った。


「紙はすべてを繋ぐ媒体。想いも、物語も真っ白な身体に全部受け止めて、相手に伝えてくれるでありんす。――ああ」


 文車妖妃は硬く目を瞑ると、涙を拭ってまるで詠うように言った。


「母というものはなんて哀しい生き物でありんしょう。母であるが故に妥協は許されず、ひとつの過ちですべてを失う。子の幸せ、不幸せ。すべてを背負わされて、けれども愛故に諦めることも叶わない。ああ……ほうら、子殺しの鬼は……すぐそこに」


 そして、ぱんと柏手を打つ。その瞬間、目も眩むような藤の花の嵐が巻き起こった。


「……えっ、ちょっ……」


 視界が紫色に染まり、思わず目を瞑る。ひゅうひゅうと風の唸る音が収まるまで、やや時間がかかった。ようやく辺りに静けさが戻ってきた頃、恐る恐る目を開ける。


 ――そして、驚きのあまりに目を見張った。


 そこはまるで、水墨画の中のようだった。


 辺り一面、色がない。墨の濃淡で表現されたモノクロな世界。空だけがまるで血のように鮮やかな赤色をしている。けれども、見覚えがある風景だ。何故ならばそれは、私には馴染み深いわが家の前の通りだったのだから。


「おい、夏織! 大丈夫か」


 するとそこに水明が駆けてきた。足もとにはクロも一緒にいる。


 周囲を確認すると、他のみんなも一緒にこの場所へ飛ばされたようだ。文車妖妃と髪鬼、玉樹さん以外は全員揃っている。ひらりと私の肩から降りたにゃあさんは、警戒するように辺りを見回すと、ある一点を見つめて鋭い声を上げた。


「……あそこ!」


 にゃあさんの視線の先を追う。そして、そこに広がっていた光景を目にした途端、全身が粟立った。


 ――鳥だ。大きな鳥が、通りに面している軒先にずらりと並んでいる。


 大鷲よりも大きな身体を持つその鳥は、漆黒の羽を持ち、尾羽は血のように赤い。それだけならば、大きいだけで現し世の鳥と変わりない。けれどもそれは、決定的に普通の鳥とは違う部分があった。本来ならば鳥の胸から頭に当たる部分……そこが裸の女性の上半身となっていたのだ。青白い顔、たわわな胸、ふっくらした下腹部、くびれた腰。普通ならば性的な印象を受けるかもしれないが、それらはすべて死体のように土気色で、どこか穢らわしく悍ましい。


姑獲鳥(こかくちょう)……」


 ウバメドリとも呼ばれるその鳥は、中国から伝来したと謂われている。


 中国の荊州に多く生息し、毛を着ると鳥に変身し、毛を脱ぐと女性の姿になるという。「慶長見聞集」や「本草啓蒙」「本草新聞」「本草網目」といった古書には、鬼神の一種でよく人の命を奪うとある。そしてこのあやかしは、子に害を為すことで知られていた。


「おぎゃあ……おぎゃあ……」


 まるで赤ん坊のような不気味な鳴き声を上げ、姑獲鳥は軒先からある場所をじっと見つめていた。その視線の先は、貸本屋の隣家――……お豊さんの家だ。


 どうやらこれから生まれる子を奪おうと待ち構えているらしい。身を寄せ合った姑獲鳥たちは、中の様子を窺うためか、気まぐれにお豊さんの家に近づく。


 けれども、それは悉くが防がれていた。ある人物が、家に近づくものをすべて打ち払っていたからだ。


「岩手さん……!?」

「……はあっ……はあっ……はあっ……」


 そこにいたのは、お豊さんの実の母、岩手だった。肩で息をしていて、余裕がないのか声を掛けても反応がない。


 玉樹さんの絵にあったように、顔には般若の面。身に纏った襤褸の着物は、返り血で真っ赤に染まり、はだけた肌には玉の汗が浮かんでいる。その手に握るは出刃包丁――姑獲鳥が家に近づくたび、鋭い刃は異形の鳥を容赦なく切り捨てて血だまりに沈めている。


 岩手の傍には、山のような姑獲鳥の死骸が積まれていた。一体、どれほどの時間ここで戦い続けているのだろう。白黒の世界で、空の赤さと姑獲鳥が流す血の色だけがやけに色鮮やかだ。


「……ここにおったのか、岩手」


 すると、その様子を見ていたぬらりひょんがどこか苦しげに言った。


「ぬらりひょん、あの……ここはどこなんですか?」


 白黒な世界、群れる姑獲鳥、血まみれになって戦い続けている岩手。状況が理解できなくて困惑していると、ぬらりひょんはふむと髭のない顎を撫でて言った。


「誰かしらが意図的に作った次元の狭間じゃろうなあ。裏の世界とでも言おうか」

「なんでそんな場所に岩手さんが……?」

「わが子とその孫を害そうとする存在に気づき、ここで守っておったのだろう。裏の世界は表の世界とは違うが、限りなく近いものだ。生まれる前の子を害されれば、表の世界の子はひとたまりもない。お豊が今日という日を迎えられたのは、岩手の助けがあったからじゃろうな」


 ――最近、誰かの視線を感じるの。


 お豊さんの言葉を思い出す。そしてその視線は、すぐに消えてしまうのだとも言っていた。お豊さんの感じていた視線が、岩手さんのものだったのか、それとも子どもを狙う姑獲鳥のものだったのかはわからないが、少なくとも岩手はずっとお豊さんの近くにいたということになる。


「ここで……たったひとりで……?」


 ぬらりひょんと話している間にも、岩手は何羽もの姑獲鳥を屠っていた。もう出刃包丁の刃はボロボロで、斬るというよりかは力任せに薙ぐといった方が正しいかもしれない。


 見るからに満身創痍だが、岩手はお豊さんの家の前から離れようとはしない。背後にあるものがなによりも大切なのだと、その姿が語っているようだった。


 それはまさに、子のために命を賭して戦う母の姿。


 しかし、たった一度の――それも決定的な過ちが親子の間に深い溝を作りだし、母子が互いに赦し合うことはない。


 どうにもやるせなくなり立ち尽くす。

 するとそこに、どこか場違いな声が届いた。


「ああ……面倒そうなものが来ましたね。やだなあ、主に怒られてしまいます」


 それは、どこか気怠げな青年の声だった。あくびを噛み殺したような、亡骸がゴロゴロ転がっている凄惨なこの場所にはまったくそぐわない声。その声の主は、死んだ姑獲鳥をまるで気にする様子もなく踏みつけると、ノロノロとした足取りで近づいてきた。


「簡単な仕事だと思ったのに。どうしてこうも上手くいかないんでしょうか……」


 それは、人型のあやかしだった。


 血の通っていない青白い肌、ほつれた黒髪は脂っぽく、べったりと肌にくっついている。腰から下は血で塗れた着物で覆われ、深く隈が刻まれた顔にはまるで生気がない。まるで死者のような顔は、生理的嫌悪感を抱かせるような雰囲気があった。


「あ、でも……こんな可愛い子に会えたのはよかったかもしれませんねえ。うん、この仕事も捨てたものじゃない」


 そのあやかしはにっこり笑うと、私に向かってヒラヒラと手を振った。


「夏織、下がれ」

「あたしの後ろに」

「ぐるるるるる……!」


 すると、水明とにゃあさん、クロが私の前に進み出てくれた。気がつくと隣に東雲さんがいて、得体のしれないあやかしに恐怖を覚えていた私はホッと胸を撫で下ろす。


「酷いな。僕は手を振っただけなのに。まるでお姫様みたいですねえ、皆に大切にされて……羨ましいことです」


 するとそのあやかしは、言葉とは裏腹に、まるでショックを受けていない口ぶりで肩を竦めると、くるりと踵を返し、岩手に向かって歩き出した。 


「さあて、そろそろお終いにしましょうか。ちょっとのんびりしすぎましたね」


 そして片手を上げると、ひょいとその手を岩手に向けて軽い口調で言った。


「――みなさーん。殺しちゃってください」


 その瞬間、家々の軒先に並んでいた姑獲鳥が一斉に飛び立った。おぎゃあと赤ん坊によく似た声を上げて、ひとり奮闘していた岩手へと殺到する。


「……岩手さん!!」

「くそっ! オイ、行くぞお前ら!」

「言われなくとも!」


 慌てて、東雲さんや水明が走り出す。水明の護符が飛び、クロが姑獲鳥へ噛みつく。東雲さんも果敢に飛びかかっていくけれども、外側の姑獲鳥を引き剥がすだけで精一杯だ。岩手に群がる姑獲鳥を追い払うことが出来ずに、ただただ時間だけが過ぎていく。


「岩手さん!」


 ――お豊さんのお母さんが死んでしまう!


 数え切れないほどの姑獲鳥に群がられている岩手に、時間が経てば発つほど絶望感が増していく。どうすればいいかわからず、駆け出したい気持ちを必死に堪える。


「夏織、駄目よ。あんたはここにいて!」

「わかってる……! でも」


 ――ああ。なんで私はなにもできないの!


 それがあまりにも悔しくて。それでも、なにかしたくて叫んだ。


「岩手さん! もうすぐ赤ちゃんが生まれるんです! 今度は……今度こそは、お孫さんを抱いてあげてください……! 可愛いって、褒めてあげてください……!」


 万感の想いを籠めた叫びだ。届かなくてもいい。聞こえなくてもいい。でも、少しでも岩手の支えになれれば……そんな想いで、喉が嗄れそうになるほどに大声で叫ぶ。


 するとその時、姑獲鳥たちに異変が起きた。


「ぎゃあああああ!」


 断末魔の叫びと共に、岩手へ殺到していた姑獲鳥が弾き飛ばされていく。まるで雨のように姑獲鳥がボタボタと落ちてくる中、朗らかな笑い声が辺りに響き渡った。


「ホッホ。まったく夏織の言うとおり。子が生まれるのはめでたきことなのに、それを一番に喜ぶべき祖母がこの調子では、先が思いやられる」

「ぬらりひょん!」


 それは、あやかしの総大将だった。いつの間にやら岩手の傍へと移動していたらしい。自身の身体の倍ほどもある大きな海月を出現させ、姑獲鳥の攻撃を悉く防いでいる。


「嘆かわしい。姑獲鳥は人の子を奪うものだが、なにもお豊の子でなくともいいだろうに。のう、そこな(うぶ)()。……いや、産女らしきなにか」


 すると顔を引き攣らせたそれは、生気のない顔に怒気を孕ませて言った。


「なっ……なにをいうのですかね。僕はあやかしとして当然のことをしたまでですよ。子がいれば襲う。それは姑獲鳥としては極々当たり前のことですから」

「……どこの理屈だ、それは。馬鹿らしい」


 すると深く嘆息したぬらりひょんは、海月に青白い電撃を纏わせながら言った。


「――なにを勘違いしているのか知らぬが、あやかしが無差別に子を襲うわけがあるまい。人を喰らう鬼も、夜道で人を脅かすだけの者も、子を求める姑獲鳥だって――それぞれ理由があってそれを為すのだ。あやかしは理性のない化け物ではない!」


 そして、貯め込んでいた電撃を辺りへ放つ。すると、再び岩手を狙い集まって来た姑獲鳥に直撃して、ボタボタと地面へ落ちていった。


「実に人間らしい考え方じゃのう。その産女の皮はどこで被ってきた?」

「……チッ!」


 ぬらりひょんが冷たい視線を向けると、産女は勢いよく後方へと飛んだ。


「ハハッ。流石にあやかしの総大将相手には分が悪いですね……」


 そしてくるりと踵を返すと、脱兎の如く逃げ出した。


「あっ……!」

「待て、この野郎!」


 しかし、産女はすぐに足を止めた。その前に水明が立ちはだかったからだ。


「逃げるな」

「こんにちは。よかったら、そこを通していただけませんかね……」

「馬鹿を言うな。お前には聞きたいことがある」


 水明は護符を構えると、鋭い目つきで産女を睨みつけて言った。


「どこの祓い屋の差し金だ。こんなことをして、一体なんの意味がある」


 すると、産女はポリポリと頬を指で掻くと、小さく肩を竦めた。


「さてね。あなたに正直に話す理由もありませんし」

「……そうか。ならば無理矢理にでも聞くまでだ……クロ!」

「はーい! オイラに任せておいて!」


 水明の掛け声と共に、まるで弾丸のようにクロが飛び出していく。クロは一瞬の間に産女の足もとへと肉薄すると、長い尾を一振りした。産女はひらりとそれを避けるも、時間差で発生した衝撃波を受けて、全身に細かい傷が出来てしまった。


 赤い血が飛び散り、痛みで産女が目を瞑ると、クロはすかさずもう一撃を繰り出す。すると、クロの尾が産女の顔に命中して、産女は顔を押さえて蹲った。


 水明は蹲ってしまった産女に近づくと、冷たい目で見下ろして言った。


「死にたくなければ正直に言うんだな。どうしてあやかしを狙った。幽世へ冬を留め置こうとする理由はなんだ。これ以上、あやかしを害するなら容赦しないぞ」


 水明の問いかけに、産女はしばらくの間黙ったままだった。


「おい……」


 しかし、再び水明が声を掛けようとした瞬間、突然産女が笑い出した。


「ハ……ハハハ……なんだそれは。あやかしを害するなら容赦しない? ハハ……」


 ギョッとして水明が僅かに後退る。クロが警戒したように唸ると、産女はゆっくりと顔を上げていった。


「君がそれを言うんですか? ――今まで散々あやかしを狩ってきた癖に。あやかしの血を嫌ってほど浴びた癖に、あやかしを数え切れないほど殺した癖に。なにも知らないみたいな顔でそれを言うんですか!!」


 悲痛な叫びを上げた産女の顔は、無残にも裂けてしまっていた。べろりと肌色の皮が剥け、内部が見えてしまっている。一瞬、痛々しい光景を想像して目を逸らしかけるも、肌の下に露わになったものがあまりにも意外すぎて、目が離せなくなってしまった。


 産女の皮の下――そこから露わになったのは、真っ赤な瞳を持ち、黒々とした毛を持った獣の顔だったのだ。


 驚きのあまりに硬直していると、その隙に産女は水明の横をすり抜けて走り出した。


「くそっ……待て!」


 水明は慌てて追いかけようとするも、後方から聞こえてきた悲鳴に足を止める。


「ああああっ……うう……っ!」

「ぬらりひょん……!」


 悲鳴の主はぬらりひょんだった。痛みに顔を歪め、その場に蹲っている。どうやら背中から斬られたらしい。一体誰が――そう思ってぬらりひょんの背後を見ると、そこにいたのはあまりにも意外な人物だった。


「……ひゅう……ひゅう……ひゅう……」


 肩を揺らし、血で濡れた出刃包丁を手に佇んでいるのは岩手だ。


 彼女は般若の面に表情を隠したまま、倒れているぬらりひょんを見下ろし、なにも言わずにそこに立っていた。


「岩手さん!? ど、どうして……」

「ははっ……! ざまあみろ!」


 すると癪に障る声が聞こえてきて振り返る。声の主は産女だ。産女は私たちから充分な距離を取ると、まるで負け犬の遠吠えみたいに言った。


「計画ではね、その鬼婆に娘を襲わせるはずだったんですよ! 実母に二度も子を殺されれば沸き起こる負の感情は計り知れない! だから面を着けたのに……そいつ鋼の意思で逆らいやがりまして。あの家に近づくものなら無差別に襲うようになってしまいました」


 そして半分破れた顔に笑みを浮かべると、ひらひらと手を振って言った。


「ま、せいぜい頑張ってください。今日この時まで突破できないくらいには、ソイツに苦労させられたんです」

「……な、なに言ってるの……? どうしてそんな残酷なことができるの」


 相手のことをなにも考えていない酷い計画に、呆然と立ち尽くす。水明の言う通り、この産女が祓い屋の手先だったのであれば、この計画の主導は人間が握っていたということなのだろうか。


 ――人間って、こうも簡単に、無慈悲に誰かを傷つけるものなの?


 嫌だ。信じたくない。


「夏織!! ぼうっとしてんじゃねえ!」


 するとその時、東雲さんの怒声が聞こえて正気に戻った。


 慌てて状況を確認すると、誰かがこちらに向かって走ってくるのが見える。


 白と黒、モノクロの世界を真っ赤に染まった刃を煌めかせて走ってくるのは――岩手だ。


「夏織、逃げろ! おい、お前ら夏織を守れ!」


 酷く慌てた様子で、東雲さんが叫ぶ。どうやら岩手にやられたらしく、腕から出血している。すると、すかさず私を背後に庇ったにゃあさんが叫んだ。


「東雲、アンタ油断してんじゃないわよ!」

「うっせえな、仕方ねえだろ!? 傷つけるわけには……ああ、ちくしょう!」


 そんなやりとりをしている間にも、岩手はどんどんと近づいてくる。


「止まりなさいってば!」


 巨大化したにゃあさんが岩手を押さえつけようと飛びかかるも、素早い身のこなしで躱されてしまった。体勢を低くした岩手は、益々スピードを上げて私へ向かってきた。


「ま、待って岩手さん!」

「くそっ……夏織!」


 水明が岩手へ向かって護符を投げる。けれども、それが岩手に到達するよりも先に、血で濡れた出刃包丁が私の眼前に迫った。


 ――死ぬ……!


 ギュッと目を瞑る。まさかこんなことで命を落とすなんてと、後悔の念ばかりが募る。


「……?」


 しかし、いつまで経っても痛みが襲ってこない。


 なにかあったのかと、恐る恐る目を開けると――そこには、今まさに私に襲いかかろうとしている体制のまま、顔だけ背後へ向けて固まっている岩手の姿があった。


「な、なに……?」


 あまりのことにその場にへたり込みそうになるのを必死に堪え、岩手の視線の先を追う。そこにはお豊さんの家があった。――そして。


「ほああ……ほああ……ほああ……」


 聞こえてきたのは、小さな小さな泣き声。姑獲鳥の鳴き声とはまるで違う、初めて触れた世界への驚きを、精一杯の声で表現している可愛らしい声。


「生まれた……?」


 思わず呟くと、その瞬間、カランと乾いた音がしてなにかが落ちた。それは、岩手が握っていた出刃包丁だ。刃がこぼれ、真っ赤な血に濡れたそれは、地面に落下すると僅かに震えてそのまま止まった。


 ――ああ。


 私は胸の奥から温かいものが溢れてくるのを感じながら、そっと岩手に近づいた。


 そしておもむろに般若の面に手を伸ばすと――それを外して言った。


「おめでとうございます。お孫さん、とっても元気な泣き声ですね」


 般若の面の下から現れたのは、鬼の形相でもなんでもない。総白髪の……お豊さんと似た面差しの老婆だった。岩手はお豊さんの家の方向をじっと見つめていたかと思うと、小さく唇を震わせた。


「……やっと」


 そしてゆっくりと瞼を伏せた。すう、と零れた涙は、限りなく透明に近い色をしていた。

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