安達ヶ原の母子3:遠い春
件の予言が終わると、集まっていたあやかしたちはまるで蜘蛛の子を散らすように去って行った。そんな中、私たちは泣いているお豊さんを連れて貸本屋へと戻った。
「この人の旦那さんは?」
「今、仕事中らしいの。にゃあさんに報せに行ってもらった」
居間の火鉢の傍へお豊さんを座らせ、水明と小声で話し合う。
先ほどまで酔っ払っていた東雲さんも、件の予言の話を聞かせると途端に酔いが醒めたらしく、どこか神妙な顔をしていた。
「聞いたわよ! とんでもない予言がされたって」
するとそこに、ナナシがやってきた。豪奢なミンクの毛皮のコートをそこら辺に放り投げ、俯いているお豊さんへ寄り添ってやる。
「大丈夫よ。解決策も提示されたらしいじゃない」
「でも……でも……」
「落ち着いて。お母さんが泣いていたら、お腹の子も哀しくなっちゃうわ?」
「はい……」
ナナシが優しく背中を撫でてあげると、お豊さんは堪えるように口を引き結び、頷いた。
目もとを和らげたナナシは、けれど少し困った様子で私たちに言った。
「春を呼び込むには子を産め、って件は言っていたらしいわね? 幽世で、この冬に出産予定のあやかしって、今どれくらいいるのかしら……」
「ホッホ、それほど多くはないのう」
すると突然、嗄れた老人の声が割り込んできた。
驚いて声がした方へ視線を遣ると、いつのまにか銀髪の美少女がお茶を飲んでいた。辺りにふわふわと半透明のくらげを侍らせ、レースの着いたゴシックなドレスを身に纏った少女は、驚いている私に気がつくと「邪魔をしている」と笑みを浮かべた。
「ぬらりひょんか」
驚いている私を余所に、東雲さんは冷静に相手の正体を看破した。私はその美少女の正体に思い至ると、ホッと胸を撫で下ろした。
「いつも唐突なんですから……今日は美少女ですか。びっくりさせないでくださいよ」
「すまぬ、すまぬ。驚いた顔を見るのが好きでなあ」
「悪趣味ですってば……」
私ががっくりと肩を落とすと、ぬらりひょんは呵々と笑った。
ぬらりひょんの姿は、鳥山石燕の「画図百鬼夜行」にも描かれている。後頭部が長く、高価そうな着物を纏い、駕籠から降りてどこぞの家に上がり込もうとしている絵だ。
他にも「化け物づくし」や「百怪図巻」などにも描かれているが、そのどれにも解説は載っておらず、詳しくは語られていない謎多きあやかし、それがぬらりひょん。
私が知るぬらりひょんは、あやかしの総大将。会う度に姿が変わる不思議なあやかしで、うちの店の常連客だ。気がつくと、さも当たり前のようにみんなに混じって談笑していることが多く、誰からも慕われ、誰よりも物知りなあやかしだったりする。
「話は戻るが……そもそも、巣ごもりをするようなあやかしは、既に子を産んでいるものが大半でのう。今から産もうなどと考えているのは、町に棲むあやかしくらいなもの。あやかし長屋に二人、大通りに二人。ま、これくらいじゃろう」
音を立ててお茶を啜ったぬらりひょんは、ほうと長く息を吐いた。
「幸いなことに、犬やら猫やら安産で多産なあやかしが多い。遠近に、現し世の医師の手配を頼んである。子を産むのは決して簡単なことではない……が、万全を期せば哀しい結末は避けられるじゃろう。こればかりは、現し世の医療の進化に感謝じゃな」
朗らかに笑うぬらりひょんに、僅かに眉を顰めた水明が訊ねた。
「あやかしだぞ? それを人間の医師に診せるってのか……?」
「坊主、心配はいらぬよ。お主が思っている以上に、現し世と幽世は近いのだ。医師になったあやかしもいれば、あやかしに好意的な人間の医師もいる。なあに、任せておけ。人とあやかしを繋ぐのも、総大将の役目よ」
ぬらりひょんは、とんと薄い胸を拳で叩くと、炬燵の上にあったミカンに手を着けた。
のんびりとした様子のぬらりひょんに安堵の息を漏らす。総大将がこういう態度でいる以上は、状況はあまり悪くないのではないかと思ったのだ。
しかしそんな私の甘い考えは、すぐさま本人が打ち破った。
「問題はお主じゃな、お豊。母親とはまだ疎遠のままか」
「…………」
ぬらりひょんの言葉に、お豊さんは黙りこくったままだ。
『憎き母を赦し、子を慈しみ、子のために助け合わねば――子は死に、亡骸は幽世へ冬を留め置く』
件の言葉を思い出してゾッとする。
あの言葉はお豊さんの子のことだったのだろうか? お豊さんはぐっと拳を握りしめると、のんびりとみかんの筋を取っているぬらりひょんを睨みつけた。
「――赦せると思いますか。私を殺し、あまつさえ膨らんだ腹からわが子を引きずり出した実母を」
「簡単には無理じゃろうなあ」
衝撃的なお豊さんの言葉に、ぬらりひょんはクツクツと笑うと――どこか達観したような表情で告げた。
「しかし、あれからどれほど時間が経っていると思っている。赦せぬ気持ちは理解できるが、足踏みばかりしているのは疲れるじゃろう?」
そしてみかんを口に放り投げると、きゅっと顔を顰めた。
「おお。酸っぱい酸っぱい。お豊よ。子が生まれるまで、まだしばしある。それまで考えるといい。ひとりで抱え込むなよ。件の予言にあった子とは、他の誰かの子の可能性もあるのだ」
そして私たちを指さすと、まるで本物の美少女のように優しい笑みを浮かべて言った。
「静かな冬は、誰かと語るのに最も適しておる。不安な心は出産にも差し障るだろう。幸い、幽世はお人好しに事欠かない。誰かと共に穏やかに過ごせ。それが儂の願いだ」
「妻がお世話になりました」
「なにかあったら、すぐに言ってください」
「はい。いつもありがとうございます」
迎えに来た旦那さんにお豊さんを預け、私たちは居間へと戻った。無事に役目を果たし戻ってきたにゃあさんを労いつつ、お茶を用意する。
「……お豊さんが、そんな事情を抱えているだなんて知らなかった」
思わずぽつりと零すと、ナナシと東雲さんは酷く苦そうな表情を浮かべた。
「人間からあやかしに堕ちたもんは、なにかしら抱えてるもんさ」
「アタシは知ってたけどね。でも……もうとっくに解決したものだと思ってたわ。だから子どもが生まれるって聞いた時、もう大丈夫なのねって安心したのに」
ため息を零しているナナシに、私は恐る恐る訊ねた。
「ナナシ、お豊さんの事情って……聞いてもいい?」
私の言葉に、ナナシは一瞬だけ目を泳がせた。そして助けを求めるようにぬらりひょんへ視線を投げかける。すると、ぬらりひょんは三個目のみかんに手を着けながら「別によかろう」と大様に頷いた。
「……わかったわ。有名な話だもの。そのうち耳にも入るでしょうし」
ナナシは瞼を伏せると、静かな口調で語り始めた。
それはあまりにも哀しい物語。鬼になってしまった母と、殺されてしまった娘の――誰も救われない話だ。
「昔、京都のとある公家屋敷に、岩手という女性が奉公していたそうよ」
岩手は環の宮という姫の乳母をしていた。しかし、その姫は不治の病を患っていて、たいそう心を痛めていたそうだ。ある日、どんな医者に診せてもよくならない姫の病を治そうと、岩手は治療薬を求めて旅立った。幼いわが子を残し、西へ東へ。すると……姫の病には胎児の生き肝が効くという噂が耳に入った。岩手は、胎児の生き肝を手に入れるために、安達ヶ原の岩屋に住み着き、妊婦の旅人が通るのを待った。
「……とんでもない噂を信じたものだな。そんなもの効くわけがない」
ため息を零した水明に、ナナシはゆっくりと首を横に振った。
「平安時代の歌人、平兼盛が『みちのくの 安達ヶ原の黒塚に 鬼こもれりと きくはまことか』って詠っているくらいだから、それより前のことよ。今みたいに医療も発達していなかったでしょうし、胎児の肝なんて滅多に手に入らないものじゃないと、不治の病には効かないと信じてしまったのかもしれないわね」
――どれだけ追い詰められたら、胎児の肝を手に入れようと思うのだろう。
乳母をしていた姫を助けるためとは言え、岩手という女性は、鬼へ堕ちてしまう前に、既に心は人ならざるものへと変わり果てていたのかもしれない。
「岩手は妊婦が通るのをずっと待っていた。すると――ある日のこと。ひと組の夫婦が岩屋へ一晩の宿を借りにやってきたの。奥さんは妊娠していた。岩手は喜んで夫婦を泊めたわ。それで――夫が席を外した隙に奥さんを吊して……腹を裂いたの」
「……う……」
あまりのことに吐き気を覚える。すると、水明が私の背中をさすってくれた。
ナナシは視線を床に落とすと、青ざめた顔で話を進めた。
「胎児を引きずり出し、肝を抜いた時に、岩手はあることに気がついたの。殺した奥さんの荷物に……旅立つ前に、わが子に授けたお守りが入っていたことに。その女性は、岩手が京都に置いてきた娘だったのよ」
娘を殺し、孫をも殺した。その事実に気がついた岩手は気が触れてしまった。
「岩手はそれをきっかけに鬼に成り果てた。旅人を次々に手にかけて、生き肝を喰らう鬼婆になってしまった。最期は旅の僧に討たれて死んでしまったとか、罪を悔いて自身も出家して高僧になったとか……色々言われているけれどね」
そこまで話し終わると、ナナシは黙り込んでしまった。
恐らく、その殺された娘がお豊さんなのだ。お豊さんは実の母親に腹の子共々殺されたことが無念でならなかった。そのせいで、鬼となってしまったのだろう。
「ねえ、ナナシ」
すると今まで水明の傍で黙って話を聞いていたクロが声を上げた。いつもよりも潤んでいるように見える瞳で、じっとナナシを見上げている。
「病気だったお姫様はどうなったの? 奥さんが大変なことになっている時に、席を外していた旦那さんは?」
クロの問いかけに、ナナシはゆっくりと首を横に振った。
「伝承に残っている以上のことは知らないわ。でも……岩手は薬を持って姫のもとへは戻らなかったし、気が触れた岩手が旦那を生かしておくとは思えない」
結局は……誰も残らなかった。そういうことなのだろう。
「哀しすぎるよ……なんでこうなっちゃったの。どうして誰も幸せにならなかったの」
クロはぽろぽろと大粒の涙を零した。尖った耳はぺたんと下がり、尻尾は不安そうにゆらゆら揺れている。水明はクロを抱き上げ、背中を撫でてやりながら言った。
「すべては善意から始まったんだ。なのに胎児の生き肝なんて、そんな噂を信じたばっかりに……救われないな」
――大切な姫のために娘と孫を殺した岩手、実の母にすべてを奪われたお豊さん。
このふたりが仲直りする可能性なんてあるのだろうか……?
胸が痛い。思わず眉を顰めていると、東雲さんがボソリと言った。
「なにはともあれ俺たちにできることは、子が生まれるまで支えてやることだけだ。こればっかりは、自分の中で決着をつけるしかねえ」
「そうだね」
私は部屋の隅で丸くなっているにゃあさんをチラリと見ると、ため息と共に庭を眺めた。
あれからまた雪が降り始めた。空から絶え間なく降り続ける雪は、すべてを白く染め、新年に浮かれていた幽世へまた静けさを呼び戻す。
『幽世の冬は明けない』
件が告げた不気味な予言。件の予言は必ず当たるという。
冬だって楽しいことはある。けれど、ずっと続くなんてまっぴらごめんだ。大好きなご近所さんや常連さんたちに会えないなんて寂しすぎる。
私は両腕で自分を抱きしめると――麗らかな春の日を心から恋しく思った。




